著者
笠松 直
出版者
日本歴史言語学会
雑誌
歴史言語学 (ISSN:21874859)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-22, 2022-12-27 (Released:2023-06-05)

動詞 bhū は本来,能動態で活用する動詞である。RV 以来,ほとんど例外はない。 しかし Saddhp の韻文部分には3 sg. ind. bhavate, 3 sg. opt. bhaveta などいくつかの 中動態語形が存する。こうした中動態語形は同時代の文献である Mahāvastu にも 稀にしか見られない。このような異例とも言える中動態語形はなぜ,どのように 用いられたものであろうか。 結論的には,多数存する bhaveta は BHS bhaveya を,韻律を崩すことなくサンス クリット語形とするため採用された詩的自由形 (poetic license) である。中央アジア 伝本の散文には一部 BHS bhaveya が残存している。これが本来の語形であろう。 韻文中の語形は早期に bhaveta と置換されたと思しく,多くの写本で読みは比較 的揃う。しかし新層のネパール伝本の一部では bhaveta を―韻律に反してまでも ― bhavet と校訂する傾向が看取される。異例な語形であるとの認識があったもの であろう。bhavate も,韻文ウパニシャッドに見られるそれと同様,韻律上の破格 と解釈できる。 2 sg. ipv. bhavasva は原 Saddhp に遡るとはいえない。2 pl. ipv. bhavadhvam ともど も,ギルギット・ネパール祖型段階に遡る語形と見える。その使用意図は,何ら か主語の関心を表現した可能性があるが,二次的な読みと言わざるを得ない。本 来の読みは中央アジア伝本に証される BHS bhavatha ないし Skt. bhavata の如くで あろう。 そもそも中動態の語形は少数で出典箇所も偏り,その活用は生産的でない。総 じて原 Saddhp では,bhū は能動態で活用形を展開したと思しい。仮に中動態の 語形が用いられていたとしても,元来中動態が持っていた機能は失われていたと 思われる。
著者
西山 教行
出版者
日本歴史言語学会
雑誌
歴史言語学 (ISSN:21874859)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.161-169, 2023-12-27 (Released:2024-04-15)

フランスはヨーロッパ諸国の中でも比較的早い時期に言語整備を行い,1635年に リシュリューによって設立されたアカデミーフランセーズはフランス語の標準化に 重要な役割を果たした。アカデミーフランセーズは辞書,文法書,修辞学,詩学の 編集を通じてフランス語の純化と整備をめざしていた。辞書の編集は現在にいたる まで継続しているものの,文法書は1932年にいちど限り刊行され,また他の著作に ついてはひとたびも刊行されていない。 アカデミーフランセーズの辞書は1693年に刊行されたが,その重要な目的は「ひ とつのフランス語」を提示し,フランス語の顕彰を通じて国王の威信をヨーロッパ 諸国に誇示することであった。そこでのフランス語の規範は宮廷や上流社会の「良 き慣用」に基づくもので,古典主義文化のオネットオムに向けられていた。 このフランス語は時代とともに変化し,アカデミーフランセーズの辞書も科学技 術用語などを取り入れていた。ところが大革命のただなかで刊行された第 5 版はフ ランス語の標準化にもまして,革命イデオロギーや革命の生み出した新語の表明に 専念し,また王政廃止後の共和国市民へ向けたフランス語の整備を標榜している。 19世紀以降,アカデミーフランセーズはイデオロギー装置としての第 5 版を否認し たが,革命の生み出した社会現象を表現する新語はその後の言語生活に統合されて いった。 20世紀におけるフランス語の標準化は政府機関によっても実施され,法制上の規 定を伴っているのに対し,アカデミーフランセーズの辞書は言語法ではなく,機関 の権威や威信を根拠とするもので,公的な文化機関としてフランス語への介入を実 施しており,これが統制されたフランス語の表象の構築にも貢献している。