著者
平山 朝治 Asaji HIRAYAMA
出版者
Master's and Doctoral Programs in International and Advanced Japanese Studies, Graduate School of Humanities and Social Sciences, University of Tsukuba
雑誌
国際日本研究 = Journal of International and Advanced Japanese Studies (ISSN:21860564)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.1-22, 2020-02

日本で途切れることなく定められるようになった最初の元号である大宝は首皇子(後の聖武天皇)誕生に因んだものと思われ、中国の建元が漢の武帝即位を基準とするのとは異なり、キリスト受肉紀元ADの影響があるのではないかという仮説を立てて検証を試みる。ADは641年には東シリア教会キリスト教とともに唐に伝わっており、久米邦武は聖徳太子伝にキリスト伝の影響があるとし、7世紀後半に唐からそれが伝わったと論じたが、根拠薄弱と批判されてきた。中国経由ではなく、インド人夫婦をはじめとするドヴァーラヴァティー(現在のタイ国チャオプラヤー川下流域)の遣唐使節が654年日向に漂着し、彼らによってキリスト教が伝えられたことが、天智朝において製作されて流通した日本最初の鋳貨である杋銀貨(無文銀銭)や、インドから中国を経ずに朝鮮半島を経由して日本に渡来したとされる善光寺本尊如来によって裏付けられ、善光寺信仰のほか、祇園信仰、怨霊・御霊信仰や春秋彼岸会にもキリスト教の影響を読みとることができる。日本に定着した不可逆的な歴史意識は終末を欠いており、ダーウィンの進化論との相性がよいことを丸山真男は指摘し、岡本太郎は’70年万博の太陽の塔のなかに生命の樹としてそれを表現した。終末思想は周期化されて辛酉革命・甲子革令の思想に基づく改元慣行となった。後醍醐天皇や孝明天皇の在位中にそれらによる改元があって討幕運動が高まり、1921辛酉年には原敬首相暗殺が起こり、その前後に大正デモクラシーが昂揚した。また、日本固有の進化論的歴史意識は高度経済成長後アイドルが担うようになった。The Taiho era, which was the first era to be established without interruption in Japan, started from the birth of Prince Obito, who later became Emperor Shomu. This era is quite different from China’s Kengen era, which was based on the enthronement of the Emperor Wu of Han. In this paper, we explore and test the hypothesis of the influence of the anno domino (AD) period after Christ’s incarnation on Taiho.AD was transmitted to Tang with East-Syriac Christianity in 641. Although Kunitake KUME points out that Christianity influenced Prince Shotoku’s biography and that it was transmitted from Tang to Japan in the late 7th century, this argument has been criticized as unsound. An entourage which included an envoy of Dvaravati (the present-day Chao Phraya River area in Thailand) as well as Indian couples who intended to pay tribute to Tang came to Japan in 654 via a route that by-passed China. The fact that they also brought Christianity to Japan is supported by the production and circulation of the first Japanese coin (Bon Silver Coin), circulated in the Tenchi era. The principal image of Amida Sanzo-zo (the statue of Amida Triad) in Zenko-ji Temple (善光寺)is believed to have been sent to Japan from India via the Korean peninsula without passing through China. In addition to the Zenko-ji Faith, Christianity’s influence can also be found in the Gion Faith (祇園信仰), the Spiritual Faith (怨霊・御霊信仰), and the Spring/Autumn Fair Party (春秋彼岸会).As pointed out by Masao MARUYAMA, the irreversible historical consciousness that has been established in Japan is unending and compatible with Darwin’s theory of evolution. Taro OKAMOTO expresses it as the Tree of Life within the Tower of the Sun in the 1970 Exposition. Eschatological thought was transformed into cyclical patterns and was found in the practice of Kaigens based on the ideas of the Shin-yu Revolution (辛酉革命)and the Ko-shi change of order (甲子革令). During the reigns of Emperor Godaigo and Emperor Komei, the Kaigens based on these ideas were performed and the abolition movement against shogunate government(幕府)became dominant. Prime Minister Takashi (Kei) HARA was assassinated in 1921, and the Taisho democracy movement started to become dominant around that time. In addition, Japan’s unique evolutionary historical consciousness has been expressed by idols since the period of high economic growth.
著者
戸川 和成 TOGAWA Kazunari
出版者
Master's and Doctoral Programs in International and Advanced Japanese Studies, Graduate School of Humanities and Social Sciences, University of Tsukuba
雑誌
国際日本研究 = Journal of International and Advanced Japanese Studies (ISSN:21860564)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.23-38, 2018-02-15

従来の政策満足度研究では、市民レベルの政策満足度の規定要因の検証が主流であるが、本研究では東京の特別区の中で、なぜ、政策満足度に地域偏差が生じるのか、政府規模の問題から議論し、ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)論およびネットワーク・ガバナンスにおけるメタ・ガバナンスの視点から定量的分析を行った。つまり、政策満足度から地域社会運営(ローカル・ガバナンス)を評価し、公共政策研究の中に市民社会要因を位置づけた上で分析を行った。その結果、小さな政府であるほど政策満足度が高く、市民社会組織と政府のガバナンス・ネットワーク、地域コミュニティのソーシャル・キャピタルに富んだ地域ほど地域社会運営が成功している。加えて、政府が市民社会組織との関係の仲介役を担っているほど、政策満足度が高い。つまり、本研究ではガバナンス時代の地方政府において、特別区の政策満足度の地域差の問題には市民社会要因が関係しており、規模が小さくとも政府の活動領域に市民社会組織が参入しているほど、政策満足度が高い。特別区におけるグッド・ガバナンスの達成には、ソーシャル・キャピタルに下支えられた市民社会組織をとりまく地方政府の社会的調整機能が欠かせないことが明らかとなった。
著者
渡邉 絢夏
出版者
Master's and Doctoral Programs in International and Advanced Japanese Studies, Graduate School of Humanities and Social Sciences, University of Tsukuba
雑誌
国際日本研究 = Journal of International and Advanced Japanese Studies (ISSN:21860564)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.23-44, 2019

中華民国は複雑なアイデンティティの形成を経ながら現在の「台湾」へと収斂していった。その背景には、有史以来の外来政権による支配や、蒋介石率いる国民党軍政期以来の社会的背景などが大きく関与している。台湾は長らくno man's land の状態であった。オランダ統治を契機に、以降様々な外来政権によって統治されることとなった台湾は、帝国日本の統治によって初めて「台湾」を意識することとなった。台湾は長らく複数のエスニック・グループが共存していた。エスニック・グループ同士で一つのネイションとして意識を共有することはなく、また一つのグループが明確に島の支配者として独立することもなく、棲み分けられていた。それは清朝統治時代においても同様であり、あくまでも部分的な統治に留まっていた。「日本」というネイションに統合されることで、台湾に住む人々が共に「日本人」化させられた。しかしながら、明らかな内地人と外地人の差別・差異に、外地人たちは自らを他者化することとなり、「われわれ」を意識することとなった。この「われわれ」は日本人とは異なるナショナル・アイデンティティを有するものであり、「台湾」創出の萌芽であった。本研究では台湾のナショナル・アイデンティティの萌芽を日本統治期に見るものである。方法として日本人作家の川合三良と台湾人作家の呂赫若の文学作品をテクストとして取り上げ、内地人が外地台湾をどのようにまなざしていたか、外地人たちが日本帝国の家族国家観による統治をどのように受容していたかの2 点を文学作品から分析する。さらに日本人という支配者が存在したことで、原住民族と漢族グループの境界に揺らぎが生じたことで、現代に繋がる「台湾」としてのナショナル・アイデンティティの萌芽が日本統治時代に現れていたことを明らかにする。