- 著者
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佐藤 三郎
- 出版者
- 教育哲学会
- 雑誌
- 教育哲学研究 (ISSN:03873153)
- 巻号頁・発行日
- vol.1961, no.4, pp.31-45, 1961-04-20 (Released:2010-01-22)
- 参考文献数
- 36
環境の諸相が絶えず変っていくということ、我々が二度と同じ川の流れの中に立つことが出来ないという事実は、否定され得ない。従ってまた、我々の実践的態度も、この変貌していく条件に即して変ってこなければならないということが出来る。けれどもこのような、変化にはある変化をもって応えていく我々の日常行動には、既に、ある不変なものが変化の規準として内在することを前提にしている。さもなければ、変転する条件に我々が即応することの何らの正当性もなくなるであろう。たとえ如何なる姿で存在するにせよ、我々は常に、この暗黙裡の前提に立脚することによって、流転する現実に何らかの是非の態度をもって取り組んでいる、と考えられる。我々の行動の規準であるこの暗黙裡の前提は、様々な形で表現されて来たが、表現され概念化されたものと、それの拠って立つ実相との間には、常にある距離が存在している。この距離は、人間の存在の仕方である実存の本質が絶えざる自己更新であり自己超越であるところから、或いは永遠の距離であるとも考えられる。思想の歴史に見られる具体的な思想の消長変化の事実は、かかる関係の明白な証左であると思う。従って、もしも思想の永遠性というものがあるとするならば、それは、この暗黙裡の前提の実相にどれ程忠実に立脚して、そこから絶えず生命を補給していくかに依存するものである、という見方が成り立つようにも思われる。私は今このような観点から、デューイの思想を考察して見たいと思う。彼の試みた過去の思想的伝統への挑戦とその革新への努力が、やがては彼の思想そのものが挑戦され革新される契機をはらみながらも、なお且つ生きていく永遠なものをそこに探って見ること、これが本稿の論点である。