著者
佐藤 隆
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-18, 2018 (Released:2021-04-01)

延暦3年(784)に長岡京への遷都が行なわれた後、難波地域は大川沿岸と四天王寺周辺の2地区に大きく活動拠点が分かれて、中世に向けたまちの形成が始まる。そうした動きに対して、遷都によって失われた要素としては、細工谷遺跡における遺構・遺物の急激な減少から明らかとなった「百済尼寺」の廃絶をその代表例に挙げることができる。本論では同遺跡や田辺廃寺といった「百済郡」の範囲内と推定される遺跡の土器や瓦について、百済王氏のもうひとつの本拠地である河内国交野地域の百済寺跡の瓦と比較検討を行ない、新たな事実を指摘した。交野地域において百済寺の経営基盤となった禁野本町遺跡は、8世紀前半から東西、南北に道路を配した街区の形成が見られ、難波地域とともに百済王氏の拠点として整備されたことを、土器の年代観を再検討することであらためて明確にした。長岡京遷都前後に見られる百済王氏のふたつの本拠地における動向は、遷都という歴史的大事業がどのような背景で行なわれたかを知る重要な手がかりとなる。

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