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hiroki155220
hiroki155220 (
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投稿一覧(最新100件)
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文化的境界者としてのコーダ:―「ろう文化」と「聴文化」の間―
@yukkkkkko9871 ユッコさんの疑問の答えになるかはわからんけど、こんな論文あった https://t.co/lnqD8ucIry ほかにも、Ciniiで「コーダ ろう」で検索するといくつか出てくるみたい ドンピシャなのはあるかどうか・・・
お気に入り一覧(最新100件)
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唐の太宗は『帝王略論』を読んだのか
太宗が虞世南に編纂を命じた『帝王略論』。作らせたのはいいけど本当に読んだの?という疑問から生まれたのが、拙稿28「唐の太宗は『帝王略論』を読んだのか」(『明大アジア史論集』23,2019)です。太宗の歴史談義と比較した結果、距離感の変化がうかがえました。 https://t.co/1xlZB3OGMO https://t.co/MsMX7IoHbx
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北周司会考:六官制と覇府の関係をめぐって
北周前半期に実権を握った宇文護。彼を支えた官職とは何か。 拙稿19「北周司会考―六官制と覇府の関係をめぐって」(『東洋学報』96-4,2015)では、従来財務長官とされてきた司会を再検討し、文書伝達を担い、六府を統括し、宇文護を行政面で支えていたことを解明しました。 https://t.co/Ft46V60hGg
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北周武帝親政期・宣帝期における側近官の人的構成
宇文護の次は「暴君」として名高い宣帝に着目しました。拙稿18「北周武帝親政期・宣帝期における側近官の人的構成」(『明大アジア史論集』18,2014)では、武帝親政期と宣帝期の皇帝側近官(内史・御正)就任者を分析し、人的連続性のあることを指摘しました。 https://t.co/K7ksl55dso https://t.co/t9FiJF2Ccc
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北周宗室の婚姻動向 -「楊文愻墓誌」を手がかりとして-
宇文泰の子どもたちは、どんな一族と結婚したのか。北周宗室の婚姻状況の変化を追った論文が、拙稿13「北周宗室の婚姻動向―「楊文愻墓誌」を手がかりとして」(『駿台史学』144、2012年)です。注27であげた「北周七女碑」も地味ながら貴重な石刻史料です。 https://t.co/ur4mFbWhq9
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西魏・北周覇府幕僚の基礎的考察 -幕僚の官名・官品(官命)・序列を中心に-
宇文泰や宇文護や楊堅(ついでに隋末の李淵も)が開いた覇府には、どんな幕僚が置かれていたのか。その官名や序列を特定したのが、拙稿10「西魏・北周覇府幕僚の基礎的考察―幕僚の官名・官品(官命)・序列を中心に」(『明大アジア史論集』15、2011年)です。 https://t.co/oNUwO5g1OE https://t.co/R6yxHxnkQf
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北魏後半期の州府僚佐:「山公寺碑」を中心に
北魏の地方長官(州刺史)にはどんな幕僚がいたのか。その序列は?分かっていそうで分かっていなかった州府僚佐の細部に、504年作成「山公寺碑」の分析を通じて迫ったのが、拙稿07「北魏後半期の州府僚佐ー「山公寺碑」を中心に」(『東洋学報』91-2、2009年)です。 https://t.co/vpp8cVxyWT https://t.co/VqlbBAWlxV
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「宇文述墓誌」と『隋書』宇文述伝-墓誌と正史の宇文述像をめぐって-
墓誌は死者を顕彰しているため、その叙述には問題もあります。拙稿06「「宇文述墓誌」と『隋書』宇文述伝―墓誌と正史の宇文述像をめぐって」(『駿台史学』137、2009年)では、隋煬帝の寵臣 宇文述について墓誌と正史を比較し、双方の叙述の偏りを指摘しました。 https://t.co/SsfJtIoeF4
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北周宇文護執政期再考 ―宇文護幕僚の人的構成を中心に―
院生時代の代表作の一つが、拙稿04「北周宇文護執政期再考ー宇文護幕僚の人的構成を中心に」(『集刊東洋学』98、2007年)です! 諸史料(正史・石刻・仏典等)の宇文護像の違いを示して正史を相対化し、側近や幕僚の人的構成を検討し、宇文護執政期の再評価を試みました。 https://t.co/Ywv3zhoY84 https://t.co/L9B54ScEa8
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『周書』蕭詧伝に関する一考察-蕭詧の遣使称藩を手がかりとして-
拙稿02は「蕭詧の「遣使称藩」に関する一考察ー『周書』に描かれた蕭詧像をめぐって」(『文化継承学論集』3、2007年)です。 梁の皇族蕭詧が西魏の傀儡となるきっかけとなった遣使称藩の時期を再検討し、『周書』が蕭詧の悲劇性を強調していることを明らかにしました。 https://t.co/1Z92v6EUDy https://t.co/hHn7XOsH6x
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北周「叱羅協墓誌」に関する一考察-宇文護時代再考の手がかりとして-
デビュー論文(拙稿01)は「北周「叱羅協墓誌」に関する一考察ー宇文護時代再考の手がかりとして」(『文学研究論集』23、2005年)です。北周の権力者宇文護の側近 叱羅協について、『周書』と墓誌を比較し、『周書』の叱羅協と宇文護評価に偏りがある可能性を指摘しました。 https://t.co/pRw76HOuXb
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北魏後半期の州府僚佐:「山公寺碑」を中心に
雑定は、北魏の「山公寺碑」に登場する姓です。事例が少なすぎて、詳細不明の謎の姓ですが、羌族の可能性が指摘されています。拙稿「北魏後半期の州府僚佐ー「山公寺碑」を中心に」(『東洋学報』91-2、2009年)でちょろっと触れました。https://t.co/vpp8cVfpIL
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北魏後半期の州府僚佐:「山公寺碑」を中心に
北魏には山徽や山累といった山氏(土難から改姓した鮮卑)がいました。拙稿「北魏後半期の州府僚佐ー「山公寺碑」を中心に」(『東洋学報』91-2、2009年)は、504年作成「山公寺碑」を用いて、州府の属僚の設置状況や就任者について分析した論文です。……山の日なので紹介。 https://t.co/vpp8cVfpIL
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北周宇文護執政期再考 ―宇文護幕僚の人的構成を中心に―
拙稿「北周宇文護執政期再考ー宇文護幕僚の人的構成を中心に」(『集刊東洋学』98、2007年)のリポジトリ(電子版)が公開されてました。 正史と諸史料(石刻・仏典など)の宇文護像の違いを示し、側近や幕僚の人的構成を検討し、宇文護執政期の再評価を試みたものです。 https://t.co/Ywv3zh6OTW
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