会田 大輔(Aida Daisuke)研究成果発 (@aidakenkyuseika)

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太宗が虞世南に編纂を命じた『帝王略論』。作らせたのはいいけど本当に読んだの?という疑問から生まれたのが、拙稿28「唐の太宗は『帝王略論』を読んだのか」(『明大アジア史論集』23,2019)です。太宗の歴史談義と比較した結果、距離感の変化がうかがえました。 https://t.co/1xlZB3OGMO https://t.co/MsMX7IoHbx
『帝王略論』校注稿第3弾は、拙稿25「『帝王略論』巻二校注稿」(『明大アジア史論集』21,2017)。前漢・後漢部分(巻二)の校注です。前漢部分はおおむね『漢書集解』に、後漢部分は『後漢書』に依拠していることを確認しました。 https://t.co/owChHrBlTa
唐の太宗の命で虞世南が編纂した『帝王略論』は、簡便な中国通史&君主論として唐代に広く普及しました。拙稿22「『帝王略論』巻一校注稿」(『明大アジア史論集』 20、2016)は、三皇五帝から秦の君主について論じた巻一の校注です。 https://t.co/k2Pvea79Xh
北周前半期に実権を握った宇文護。彼を支えた官職とは何か。 拙稿19「北周司会考―六官制と覇府の関係をめぐって」(『東洋学報』96-4,2015)では、従来財務長官とされてきた司会を再検討し、文書伝達を担い、六府を統括し、宇文護を行政面で支えていたことを解明しました。 https://t.co/Ft46V60hGg
宇文護の次は「暴君」として名高い宣帝に着目しました。拙稿18「北周武帝親政期・宣帝期における側近官の人的構成」(『明大アジア史論集』18,2014)では、武帝親政期と宣帝期の皇帝側近官(内史・御正)就任者を分析し、人的連続性のあることを指摘しました。 https://t.co/K7ksl55dso https://t.co/t9FiJF2Ccc
宇文泰の子どもたちは、どんな一族と結婚したのか。北周宗室の婚姻状況の変化を追った論文が、拙稿13「北周宗室の婚姻動向―「楊文愻墓誌」を手がかりとして」(『駿台史学』144、2012年)です。注27であげた「北周七女碑」も地味ながら貴重な石刻史料です。 https://t.co/ur4mFbWhq9
宇文泰や宇文護や楊堅(ついでに隋末の李淵も)が開いた覇府には、どんな幕僚が置かれていたのか。その官名や序列を特定したのが、拙稿10「西魏・北周覇府幕僚の基礎的考察―幕僚の官名・官品(官命)・序列を中心に」(『明大アジア史論集』15、2011年)です。 https://t.co/oNUwO5g1OE https://t.co/R6yxHxnkQf
北魏の地方長官(州刺史)にはどんな幕僚がいたのか。その序列は?分かっていそうで分かっていなかった州府僚佐の細部に、504年作成「山公寺碑」の分析を通じて迫ったのが、拙稿07「北魏後半期の州府僚佐ー「山公寺碑」を中心に」(『東洋学報』91-2、2009年)です。 https://t.co/vpp8cVxyWT https://t.co/VqlbBAWlxV
墓誌は死者を顕彰しているため、その叙述には問題もあります。拙稿06「「宇文述墓誌」と『隋書』宇文述伝―墓誌と正史の宇文述像をめぐって」(『駿台史学』137、2009年)では、隋煬帝の寵臣 宇文述について墓誌と正史を比較し、双方の叙述の偏りを指摘しました。 https://t.co/SsfJtIoeF4
院生時代の代表作の一つが、拙稿04「北周宇文護執政期再考ー宇文護幕僚の人的構成を中心に」(『集刊東洋学』98、2007年)です! 諸史料(正史・石刻・仏典等)の宇文護像の違いを示して正史を相対化し、側近や幕僚の人的構成を検討し、宇文護執政期の再評価を試みました。 https://t.co/Ywv3zhoY84 https://t.co/L9B54ScEa8
拙稿02は「蕭詧の「遣使称藩」に関する一考察ー『周書』に描かれた蕭詧像をめぐって」(『文化継承学論集』3、2007年)です。 梁の皇族蕭詧が西魏の傀儡となるきっかけとなった遣使称藩の時期を再検討し、『周書』が蕭詧の悲劇性を強調していることを明らかにしました。 https://t.co/1Z92v6EUDy https://t.co/hHn7XOsH6x
デビュー論文(拙稿01)は「北周「叱羅協墓誌」に関する一考察ー宇文護時代再考の手がかりとして」(『文学研究論集』23、2005年)です。北周の権力者宇文護の側近 叱羅協について、『周書』と墓誌を比較し、『周書』の叱羅協と宇文護評価に偏りがある可能性を指摘しました。 https://t.co/pRw76HOuXb
雑定は、北魏の「山公寺碑」に登場する姓です。事例が少なすぎて、詳細不明の謎の姓ですが、羌族の可能性が指摘されています。拙稿「北魏後半期の州府僚佐ー「山公寺碑」を中心に」(『東洋学報』91-2、2009年)でちょろっと触れました。https://t.co/vpp8cVfpIL
北魏には山徽や山累といった山氏(土難から改姓した鮮卑)がいました。拙稿「北魏後半期の州府僚佐ー「山公寺碑」を中心に」(『東洋学報』91-2、2009年)は、504年作成「山公寺碑」を用いて、州府の属僚の設置状況や就任者について分析した論文です。……山の日なので紹介。 https://t.co/vpp8cVfpIL
拙稿と拙著『南北朝時代』6 第3章130頁で、北魏が西北地方の中下級官僚に諸部族の領袖などを登用して取り込みを図った、と書きました。その根拠が州や将軍府の属僚について分析した拙稿「北魏後半期の州府僚佐ー「山公寺碑」を中心に」(『東洋学報』91-2、2009)です。 https://t.co/vpp8cVfpIL
拙稿と拙著『南北朝時代』4 6章2節の宇文護執政期については、拙稿「北周宇文護執政期再考ー宇文護幕僚の人的構成を中心に」(『集刊東洋学』98、2007年)に依拠しました。諸史料の宇文護像の違いを示し、幕僚などの人的構成を検討して宇文護執政期を再評価した論文です。 https://t.co/Ywv3zh6OTW
拙稿「北周宇文護執政期再考ー宇文護幕僚の人的構成を中心に」(『集刊東洋学』98、2007年)のリポジトリ(電子版)が公開されてました。 正史と諸史料(石刻・仏典など)の宇文護像の違いを示し、側近や幕僚の人的構成を検討し、宇文護執政期の再評価を試みたものです。 https://t.co/Ywv3zh6OTW
北周前半期の権力者である宇文護を支えた司会という官職について検討し、財務長官ではなく、尚書の役割を一部継承した官職であることを論じました。 会田大輔「北周司会考―六官制と覇府の関係をめぐって―」(『東洋学報』96-4,2015) https://t.co/C5keiW9QW9
504年建立の「山公寺碑」を用いて、北魏の州や将軍府の属僚の序列や流外官の設置状況などについて分析した論文です。 会田大輔「北魏後半期の州府僚佐ー「山公寺碑」を中心に」(『東洋学報』91-2、2009年) https://t.co/vpp8cVfpIL

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柿沼陽平「魏晋南北朝時代における仏教と剃髪」(『東洋学報』104巻 2号、2022年)のpdf版公開。ハゲや剃髪をめぐる中国古代人と仏僧の熾烈なる争い、その結末やいかに⁉️ https://t.co/5tCpIdWXRh
物部姓の倭系百済人というと、「物部施徳麻奇牟」「物部連奈率用奇多」「物部奈率奇非」「上方奈率物部烏」などが『日本書紀』の欽明天皇紀に見えるようですね。 https://t.co/FN5QCXPZnu https://t.co/CpnjgItu9D

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