著者
西谷 敬
出版者
奈良女子大学
雑誌
人間形成と文化 : 奈良女子大学文学部教育文化情報学講座年報 (ISSN:13429817)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.25-37, 1999

福沢諭吉は,日本の啓蒙主義を代表する思想家であり,西洋の文明を日本に紹介して,日本を西洋化し,近代化しようと努力した。彼の活動はしかしそれにとどまらず,西洋の思想に基づいて彼独自の思想を展開するに至った。彼の思想家,著作家,ジャーナリスト,教育者としての活動は,明治時代の大半に及ぶが,啓蒙思想家としての活動の頂点をなすのは,明治初年であり,彼の代表作である『文明論の概略』は1875年(明治8年)に出版された。彼は比較文明論を展開することによって,西洋文明をモデルとして,日本の文明を批判し,「半開」の段階にある日本の文明を批判し,日本を近代化しようとした。そのために西洋の文物を輸入することより,むしろ西洋文明の精神を取り入れることが肝要であることを彼は主張した。彼は,文明を人民の知徳の進歩として把握し,知と徳について説明している。彼は,道徳が人間の内面に関わる限りにおいて,私徳に帰着し,道徳を身につけることは個人の性情によるものであり,また道徳の内容は時と場所を選ばず,変化しないと考えた。これに対して知識は日々進歩し,変化しているが,広く通用し,伝達可能であるとされた。彼は,科学的知識なかんずく物理学を重視し,それを社会に適用しようとした。彼は,近因と遠因を区別し,法則的連関に従う遠因に注意を向けるべきであることを主張した。彼はまた自立的に軽重を判断する能力,智恵を重視したが,これは彼が強調した自主独立の精神の要素となるものである。彼は,西洋文明を特色づける要素として,物理学と精神の独立をあげて,これらを日本に導入することが彼の啓蒙主義の課題であった。その障害になるのは,マックス・ヴェーバーのいう伝統主義であり,福沢はそれを「惑溺」の精神として批判した。この精神を育成したのが,儒教であり,彼は,儒教の内容そのものよりも,イデオロギーとして,すなわち伝統主義的,階層的,支配者的教えとして儒教を徹底的に批判した。また西洋における自由,平等に対して,日本においては,対政府だけでなく,社会の至る所において権力の不均衡が見られることを彼は批判した。彼は,日本のこれらの伝統を破壊し,新しい精神を導入することによって思想の全面的革新をはかったということができる。他方福沢は,日本の伝統に依拠して日本の近代化を促進しようとしたということができる。まず第一に彼は,社会の基盤となる中産階級として,士族をあげている。彼は国の独立は国民の独立に依存すると考えて,国民の啓蒙をはかったが,1870年代になって平民に期待を寄せなくなったとともに,士族の活発さ,責任感,視野の広さによって産業が促進されることを期待した。士族は,福沢によって否定された封建的,階層的社会の担い手であったが,変化した状況の下で国家と産業の担い手になるとされたのであるσまた福沢は,この世界を過ぎ去りゆく浮世として見,また人間をつまらないウジ虫のように把握している。この思想は,仏教に近いが,彼は同時に社会に対して働きかけ,人間としての義務を果たすことの重要性を説いている。このような態度は,士道(武士道)の教えに親近的であることに注意しなければならない。なぜなら武士は,常に死を覚悟して,生に執着しないように教えられた。同時に彼は全力を尽くして忠誠,節約,勤勉などの義務を果たすように諭されたのである。このように生に対する態度が対立している中で,人間にとって生の意義が示される。彼の思想は,この点で日本の伝統に根ざしているが,それだけではない。というのは世界に対してこのように分裂,矛盾したあり方は,トーマス・ネーゲルが「不条理性」の論文の中で展開したように,人間にとって不可避的窮状であるということができる。福沢もこの事態に気づき,ネーゲルとは少々異なった仕方でこの問題に答えを与えようとしている。福沢はまた,実学を推奨し,経済活動の(国家的,道徳的)意義を人々,とくに士族に説くことによって,日本の資本主義の発展に大いなる貢献をなした。この点でも,彼は思想の革新を成し遂げた。というのは武士の伝統では,経済活動は卑しい,武士に無関係なものとみなされていたからである。彼は,国民の独立があって国の独立のあることを説いて個人の経済的独立が国家の繁栄に寄与することを論じて,実業を促進した。その際に彼は勤勉,忠誠といった武士の精神,つまり日本の伝統に訴えかけた。他方,精神の独立はいかに彼が力説しても,日本に定着することはなかった。これは日本の同調主義的,情緒的,審美的伝統に根ざしていないからだと考えられる。

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