著者
西阪 仰
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.58-73,122, 1992
被引用文献数
3

およそ社会的場面は身体の集合としてある。ある一定の形式のもとに配列された身体の集合は、どうじにその各身体にとって有意味ななにものかとして経験される。ここにある種の捻れがあるのは、みやすい。つまり、身体たちが自分たちの集合を有意味なものとして経験できるのは、身体が一定の形式のもとに集められているからであり、身体の集合が一定の形式のもとにあるのは、身体たち自身が、自分たちの集合を有意味なものとして経験しているからである。本稿は、身体 (=その社会的場面への参与者) たちが、この捻れを承知し利用しつつその場面を組織していく様子にたいして、ビデオ分析により積極的な記述をあたえていこうとするものである。ゴッフマンやケンドンなどの議論を参照し、その不十分な点を指摘しながら、エスノメソドロジカルに方向づけられた「会話分析」の手法に拠って、身体の配置の構造をあきらかにする。

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こんな論文どうですか? 参与フレームの身体的組織化(西阪 仰),1992 https://t.co/uC8I7vx79W およそ社会的場面は身体の集合としてある。ある一定の形式のもとに配列された身体の集合は、どうじにその各身体にとって有意味ななにも…
こんな論文どうですか? 参与フレームの身体的組織化(西阪 仰),1992 https://t.co/uC8I7vx79W およそ社会的場面は身体の集合としてある。ある一定の形式のもとに配列された身体の集合は、どうじにその各身体にとって有意味ななにも…

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