- 著者
-
遠藤 徹
- 出版者
- 山口大学哲学研究会
- 雑誌
- 山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
- 巻号頁・発行日
- no.7, pp.1-42, 1998
出生前検査で遺伝子に障害の素質をもつことが明らかになった胎児を親の意志によって中絶することが合法的に、或いは法の規制外で、既に行われ始めている。重大なこのことの是非を問う。 問題はこの行為が殺―人に当たらないかであるが、胎児や重度障害者の身分を「人」との関係でどうとらえるかが議論の分かれ目となる。障害胎児中絶の是非は一方で高等動物の、他方で嬰児や幼児の、殺害の是非の問題とも連関せざるを得ず、それら広範囲に及んで展開されている議論に目を通しながら、我々としての見解を確立することが求められる。障害胎児が「人」と連続性をもつ存在であることが否定し得ない以上、その中絶を殺「人」でないと主張することは不合理である―これが我々の見解である。 結局、是認論は、それが殺人ではあっても、許される殺人であるとの立場からのみ可能であろう。ではいかなる意味で許されるのか。その検討は是認がどこにどう立つことであるかを明らかにする。しかし問題を真に哲学的=倫理学的に十分に論じるためには、そもそも殺人禁止はいかなる根拠に基づく、どこから与えられる命令であるのか(―それは「生きる権利」がいかなる根拠で、誰(何)から与えられるのか、ということと不可分な問題であるが)、是認・否認の立場はそれにどのようにかかわるのか、が明らかにされなければならない。命令の与え主が少なくとも「自然」、さらに遡れば自然の創造者(神)であることが見届けられるとき、自然環境破壊とは別の、もう一つの"自然破壊"が現代人の根底で進行していることが浮かび上がると共に、いったい我々はもはやどこに立って自己の正しさを主張し得るのか、―最根源的問いへ突き返される。