著者
中田 考
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.65-94, 2010-03-24

The aim of this paper is to show the Idealtypus of the Islamic politics, i.e., the Caliphate (Khilāfah), which is the key concept to understand the contemporary so-called Islamic movements because the Caliphate is still the normative Islamic polity binding on Muslims as The Encyclopedia of Islamic Jurisprudence (al-Mawsū'ah al-Fiqhīyah) which is endorsed by the Ministry of the Religious Endowments and Islamic Affairs of Kuwait clarifies that the establishment of the Caliphate is obligatory by consensus of Islam...
著者
ALAM Djumali
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-29, 2015

This article deals with the "character-base activity" in contemporary Japanese subculture. The character, in this case, has a specific meaning that is not necessarily same as the general meaning. The character is not understood as the animate life or humanity itself, but is rather regarded as the "form", "template", "model", "vessel" of animate life or humanity. In the second part of this continuing article, I try to examine the basic mental structure in character-base activities from perspective of "Cognitive Science of Religion", by particularly focus on "generative ritual theory" proposed by Thomas Lawson and Rober McCauley, and also "anthropomorphism theory" proposed by Stewart Guthrie. The main thesis I explore from these theories and apply to the structure and process of character-base activities is that, 1) direct/strong relation between the character's template and self expression of an actor, and 2) inner expression of an actor as supernatural/superhuman agent through mediation of the characterʼs template.
著者
上野 修
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.1-20, 1999

The author by applying the Lacanian notion of "the Other"(l'Ature) to Davidson's Radical Interpretation Theory proposes a primal T-sentence hypothesis ― 'φ' is true iff φ― to make account for child's language learning, and draws the conclusion that truth such as defined in Tarskian fashion would entail "Urverdrӓngung" on the part of learning child, who so learning is supposed to identify itself with the truth condition of the primal token addressed by the Other viz. mother who bears the obscure authority of truth witness.
著者
中田 考
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.1-27[含 英語文要旨], 2008

The purpose of this paper is to clarify the world view of 'self and others' held by the Sunnis and the Shias by comparing prescriptions for Jihad in Shia and Sunni jurisprudence in order to understand the origins of a conflict which might arise between them. What is argued in this article is summarized as follows. (1) Both the Sunni and the Shia Muslims approve of each other mutually as members of the same 'Muslim' community. (2) The Shias consider rebels against the Imam to be unbelievers by defining this as 'those who fight against the Infallible Imam', but generally speaking they are treated with tolerance as they are released after being neutralized by being defeated and brought under control, and they are considered as possible to coexist with. (3) The rules for rebels in Shia jurisprudence had been void and ineffectual for a long time in the age of the absence of the Imam, but since the establishment of the theory of the sovereignty of the jurist (wila^^-yah faqi^^-h) and the formation of the Islamic Republic of Iran, they have been revived in a new form by substituting the concept of 'rebellion against the Jurist as the unspecific deputy of the Imam' and 'rebellion against the legitimate Islamic government' for the original 'rebellion against the Imam'. In addition, in Islamic Republic of Iran, the jurist has come to have the authority to declare an initiative jihad, an authority that used to be solely the prerogative of the Imam in traditional Shia jurisprudence. (4) The range of the infidels with whom coexistence in "the Abode of Islam" differs in Sunni jurisprudence according to the different schools, but the opinion that there is a possibility for coexistence with all infidels is gaining influence. On the other hand, Shia classical jurisprudence has admitted only the People of the Book, but Ayatollah Fadlullah of Lebanon has presented a new view that the acceptance of all infidels depending on the situation is possible.
著者
Alam Djumali
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-23, 2011

本稿は、宗教という言葉がいろいろな側面、定義、解釈、見方があって理解しにくくなったいま、改めて「宗教とは何か?」ということを、一定の視点から問い直そうと試みるものである。ここでは宗教は、一方では人間にとっての普遍的な心の機能・メカニズムとして位置づけ、他方では個々の固有な文化現象として捉え、ダイナミックかつ包括的・本質的な視点に依拠する。筆者はそれを、認知宗教学的なアプローチと呼んでいる。こうした課題とアプローチそのものを明らかにするため、本稿の前半では、宗教そのものではなく、宗教と密接な関係にある、次のような人間現象に注目しつつ、宗教との関係を探ってみた。すなわち「宗教と言語」「宗教と芸術」「宗教と国家」「宗教と暴力」「宗教と歴史」「宗教と○○教」である。そしてこれらの考察から、宗教の正体に近づくさらなる試みとして、「宗教の起源」について若干の探究を加えた。本稿の後半では、ある程度の輪郭が見えた、宗教の漠然とした正体とそれに接近する妥当なアプローチと思われる認知宗教学に、一定の具体性を見るため、身近なケースとしての「人と動物との関係」(動物との触れ合いから見る宗教性)について、その実態を幾つかの角度からたどってみた。最後に「宗教とは何か?」という一定の結論を簡潔に提示した。
著者
村上 龍
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.27-39, 2013

Although rarely pointed out, Henri Bergson(1859-1941)was highly interested in psychical phenomena, or to be exact, in researches on such phenomena. But why? In this paper I am going to clarify the reason. Unfortunately there is no article in which Bergson directly mentions psychical researches except for ""Phantasms of the Living" and "Psychical Research""(1913). So I start by examining this exceptional article, and after that I turn my eyes to several related articles. Finally I will conclude that Bergson, whose speculation is firmly based on modern sciences, regards psychical researches as the newest one.
著者
権 純哲
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1_a-40 _a, 1994

本稿は、茶山の体制構想を、彼の儒教古典解釈との関連で検討しようとするも。である。茶山思想の評価をめぐるさまざまな問題点を踏まえながら、特に王朝体制自体をどう見るべきかという問題、あるいは王朝体制を支えていた儒教思想をどう理解すべきかという問題を念頭に置き、論を進めていきたい。分析の対象としては、主に『経世遺表』の「序官」と「下官修制」を用いた。 『経世遺表』の改革構想は主に『周礼』に思想的根拠を求めたものであるが、まず、『礼』に執着せざるをえなかったことの歴史的経違や思想的背景を追跡し、茶山の儒教古典研究の現実的かつ実践的性格を明らかにすることにつとめた。次に、朝鮮王朝の基本法典である『経国大典』と茶山当時の支配体制が窺える『大典通編』の権力機構の編成を比較・検討することによって、体制の特徴及び問題点を幾つか整理し、茶山の体制構想を、機構の整備、官階の整備、軍制の整備という三つの政治的課題から考察した。 機構の整備においては、『書経』の〈三公一三孤一六官〉に思想的根拠を求めながら、〈議政府一六曹〉体制の強化が図られたことに注目した。六曹に属する衙門の数的均衡を成し遂げる際には、衙門の移動・統合・新設などが行なわれたわけであるが、その理論的根拠として、あるときは『周礼』などの儒教古典が引用され、また、あるときは『経国大典』の規定をそのまま存続させていることを解明し、そこから茶山経学の方法的性格を窺うことができた。 官階の整備においては、古典の〈三公一三少一卿一大夫一士〉という序列の体制に思想的根拠を求め、『経国大典』の「正・従九品」制度の簡略化がなされている。ここでは、まず、大夫ではないはずの三公が「大匡輔国崇禄大夫」と称されているように、改革構想自体とその古典の根拠との矛盾が指摘できた。また、大夫と士を厳格に区別すべきであるという茶山の主張は、文・武のバランスのとれた人事を目指すものである一方、動揺しつつあった身分制の問題を、体制強化の方向へ吸収しようとするものであったことも明らかにされた。 軍制の整備においては、備辺司の中枢府への統合、議政府の時任大臣と六曹判書の中枢府職の兼任禁止を通じて、軍務機関としての中枢府の正常化と最高機関としての議政府の復権が推進されていたこと。「無卒之将」と「無将之卒」を再組織することによって軍の組織と指揮系統の立て直しが図られていたこと。主力部隊である三営の兵卒数の縮小と屯田設置を通じて国家財政の再建が図られていたことに注目した。
著者
伊藤 斌
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.29-62, 1992

快楽は善なのか、それとも思慮のほうが人間にとってよいものなのか。我々の人生にとっては、快楽も思慮も両方あったほうがよい。快楽と思慮との混合した生がよりよい。では、その混合の生をよきものにしているのは快楽なのかそれとも思慮なのか。快楽と思慮の各々を分析して二等賞争いの決着をつけねばならない。第I章、快楽の分類、第II章、思慮の分類、第III章、両者の比較及び判定。 第I章 快楽は一つかそれとも幾つかのものに分けられるのか。快楽を考える時、快楽を与えるものとの関係を無視できない。その対象との関係によって、快楽には真なる快楽と単なる快楽の区別が立てられることになる。思いなしに伴う快は、思いなし自身に真偽の区別が語られるので、それに伴う快にも真偽が語られうる。また、苦痛がなくなることを快と思い違えることもある。かくて、真なる快、偽なる快、苦痛と混じりあった快と、純粋な快など、快楽の間に分類が可能となる。 第II章 思慮についてはそれと同族の知識によって分類が行われる。永遠に変らない神的対象にかかわる知識もあれば、感覚的事物を対象とする知識もある。それらの間には当然、真実さの段階が認められるがしかし、快楽の場合とは異なって、偽なる知識というものはありえない。感覚的事物を対象とする知識も、我々が感覚の世界に生きている以上、必要なものとなる。 第III章 快楽、思慮ともに様々に分類されたが、そのうちのどれを混ぜればよき生が出来るか。両者ともその全部を混合することは危険。ではどれを入れるか。よき生のよさに貢献するものを選ぶのだからというので、善の三つの姿、適度、美、真実性をとり出し、その各々によって快楽と思慮の各分類を吟味する。その結果をもとにして、よき生のよさに貢献するものをランク付けすると、快楽のほんの一部のみがようやく第五位にひっかかる程度である。快楽と思慮がその位を争った善とは何か。この対話篇で語られる限りでは、感覚の世界、実在の世界を秩序づけ、それらをしてよきものたらしめるもの、すなわち原因であり、逆に、我々の生はそのような生を可能な限り写しとっていく限りにおいてよきものとなるのであり、知性と思慮はそのことを行うことを本来の使命とする。
著者
入不二 基義
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.41_a-58_a, 1994

"It rains."の"It"は、非人称表現である。無主体論は、"I think."(=cogito)を、同様に、非人称表現として捉えようとする,つまり、コギトにおける「私」は、二人称・三人称と対比される一個の人格的「自己」ではなく、非人称的なものだから、"I think."ではなく"It thinks."あるいは"There is some thinking."と表現するのが相応しい、と無主体論は主張する。 このような無主体論の主張は、例えば、ウィトゲンシュタイン、シュリック、ストローソン等の著作の中に見ることができる。以下、本論のIとIIIでは、それぞれシュリックとストローソンによる無主体論の定式化をまとめ,IIとIVではウィトゲンシュタインの無主体論について、それがシュリックやストローソンのものといかに異なるかを明らかにする。つまり、無主体論は、表面的には上述のような「一つの」主張のように見えても、実は、全く異質な二つの方向性を内包しているのである。その方向性の違いは、「独我論と無主体論の関係」の捉え方における差異である。その観点から見るならば、シュリックとストローソンの議論は根本的に同型であり、その同型性に回収されないウィトゲンシニタインの議論の中にこそ、良質の独我論の問題を読み取ることができる。「良質の独我論の問題」とは、「一人称⇔三人称の非対称性」と「隣接項のない私性」という独我論の二面性・二重性の問題である。 この「二面性・二重性」の問題を、どのように扱うかということが、本稿の最重要課題となる。ある時期のウィトゲンシュタインは、この問題を「二つの異なるルル・表現様式」として解釈する方向性をとっていたが、本稿は、その方向性をとらないことをVで述べる。 「類比」という考え方を、独我論の語り方の問題に導入するならば、「二面性・二重売」の問題は、ポジティブな形で生かすことができるというのが、本稿の立場である。その類比とは、「私の所有物」:「私の感覚」=「私の感覚」:「私の固有性」=「私の固有性」:「隣接項のない絶対的な私の唯一性」という類比関係である。この類比をたどり「私」という主体の強度を上げていくことは、逆に「主体」としての意味を「私」から消し去っていくことに他ならないのであり、その消去された地点を指し示すことが、「無主体論」の一つの可能性であることを、本稿はVIにおいて主張する。
著者
末松 壽
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
pp.52_a-75_a, 1992

La distinction établie par Émile Benveniste entre discours et récit historique (avater de l'opposition logos / muthos des Anciens) aincité de nombreux critiques (linguistes, tel H. Weinrich, ou philosophes) à réflréchir sur les questions de l'énonciation en général et en particulier sur la modalité de la relation entre ces deux types d'énonciation. Les théoriciens de la littérature de leur côté en ont tiré parti afin de consolider les bases d'une science en construction. Il nous a paru cependant nécessaire de réexaminer la théorie du linguiste, notamment en ce qui concerne la légitimité de poser le discoursi indirect comme"troisième type d'énonciation" (ainsi qu'il l'a fait) et de nous demander s'il n'y avait pas lieu, à la place, de proposer un tout autre type : lavdéfinition Il fallait, d'autre part, mettre en lumière une certaine mutation conceptuelle des termes-clefs (récit, disconrs précisément)de Benveniste aux poéticiens dont Barthes et en particulier G. Genette, changement de perspective qui a permis, depuis les années 1970, l'essor remarquable de la narratologie. Telles sont les tâches que nous nous proposons dans cet essai.
著者
門倉 正美
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
no.1, pp.63-81, 1992

先端医療技術やバイオ・テクノロジーの進展がわれわれの死生観を揺り動かし、環境問題は別の側面からいのちの危機を突きつけている。また、死の迎え方、老いの生き方、食のあり方といった日常の風景の中でもいのちのありようが問われている。「生命学」は、現代社会におけるいのちのあり方を総体的に捉えようとする試みである。 小論はそうした「生命学」への一つのアプローチとして、デパートの店員に「カブト虫の修理」を頼む子どもの「生き物」感覚の問題を切り口として、都市化や産業社会の論理、さらには一次産業の現場での「生き物」感覚の衰退・希薄化を見ていく。一次産業は「自然条件に依拠して生命を育てる」のを本来の姿としていたが、近代化が推進されていく中で「自然を最大限に効率よく搾取していく」という工業の論理に浸されてきている。 「生き物を物として扱う」近代産業社会の枠組みの中では、家畜や作物をはじめとする人間以外の生き物の生理が侵されるだけでなく、他の生き物のゆたかな生を保証しない殺風景さはやがて人間自身の「生き物」性を損なうことに連なっていくように思える。
著者
脇條 靖弘
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.49-60, 2018

Dialectic is regarded as an important method of philosophy in Plato's later dialogues. Plato's Dialectic consists of two sub-methods, collection and division. Traditionally interpreted, collection and division are supposed to operate in combination to obtain the definition of anything under philosophical investigation, the former first determining the highest genus and the latter then dividing that into several species of lower levels. Plato's Phaedrus 265c-266b, however, presents a serious diffculty for this traditional interpretation, since the passage seems to imply that the method of collection by itself, independently of the method of division, can reach the definition. Hayase (Hayase 2016), who offers a new interpretation of Plato's Dialectic, rejects the traditional interpretation partly because of the diffculty of the passage. In this paper, having in view the argument of Hayase, I would like to show that actually the passage can consistently be understood on the traditional interpretation. Carefully examining the passage, we will see that although obtaining the definition is indeed said to be the objective of the method of collection, this by no means implies that collection by itself can achieve it. Socrates' statement about the importance of the definition, which immediately follows the introduction of collection, can be thought to be just a supplementary comment on the definition, not an illustration of collection, as Hayase assumes. Overall structure of the passage can be thought to be something like this: first, each of the two sub-methods is successively introduced, with a supplementary comment attached to the first of them, collection, and then follows the illustration of how they work together to get the definition. For the full evaluation of Hayase's new interpretation, we of course need much more thorough examination, but it is very important to see that the passage gives no diffculty to the traditional interpretation.
著者
横田 蔵人
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
no.27, pp.77-90, 2020-03-26

In Nichomachean Ethics Book VI, Aristotle poses two apparently incompatible theses: One cannot have prudentia without having moral virtues, though one cannot have moral virtues without prudence. Mediaeval thinkers undertake the task of solving this knotted puzzle, interpreting and modifying the Philosopher's ethical theory in logically sophisticated fashion. This article traces three mediaeval theologians' tracks on this count: Thomas Aquinas, John Duns Scotus, and rather less famous Franciscan friar, Peter Aureol. Thomas and Peter pay attention to the prescriptive force normative proposition has. When one concludes a moral judgment after careful deliberation, this judgement has motivating power in itself, actually moving its owner's will to act. Two Theologians agree with ascribing the source of this power to fundamental direction of the will inclined by acquired moral virtues. In this sense, the virtues precede moral deliberation. Duns Scotus, however, takes Aristotle's word in much strictly logical sense and rejects logical contradiction. He chooses to caste out one horn of dilemma and simply dismiss the impossibility of possessing prudence without moarally virtuous habits. The reason why John can take this solution is that he cuts off motivating force from moral judgement, of which Thomas and Peter approve. For Duns Scotus, moral deliberation and final judgement is a judgement only.
著者
遠藤 徹
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
no.4, pp.1-21, 1995-09

「汝及び他のあらゆる人格における人間性を、単に手段としてのみ扱うことなく、常に同時に目的としても扱うように、行為せよ。」 カントは定言命法のこの定式(―第二定式と呼ぶことにする)をどこから、どう導き出したのか。―本稿が全体として掲げる主題はこれである。この問題に迫る一つの手だてとして、今回の稿で、我々はこの定式に含まれている、しかしカントによって表だって顕わにされていない「目的」に敢えて注目する。顕わにされている目的は言うまでもなく「目的としても扱うように」と命じられている、その目的であり、あらゆる人格の人間性がそれに当たる。これを「目的(1)」とすれば、この定式にはもう一つの目的―「目的(2)」―が伏在している。我々の見るところでは、「目的(2)」は通常の目的概念であるのに対して、「目的(1)」はそうではなく、カントが目的(2)を表立たせながら論述を行わなかったことは、その主張の理解にさまざまな困難を引き起こしている。 全体のこういう視点から、「目的」であり得るものは何か、「客観的目的」及び「自体的目的」とはそれぞれ何か、二つの異同・関係はどうか、等々を見、定式の基礎づけについて一通りの解釈を得る。我々の考察の基底に貫かれる一つの洞観は「人格」はそもそも「目的」たり得ないということである。また解釈が辿り着く重要な結論は、第二定式は基本定式を越え出ているということである。 我々の疑問・批判と関わるところの深いロスの解釈をも参考に取り上げ、カント、我々双方の主張に光を当てることを期する。
著者
遠藤 徹
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
no.7, pp.1-42, 1998

出生前検査で遺伝子に障害の素質をもつことが明らかになった胎児を親の意志によって中絶することが合法的に、或いは法の規制外で、既に行われ始めている。重大なこのことの是非を問う。 問題はこの行為が殺―人に当たらないかであるが、胎児や重度障害者の身分を「人」との関係でどうとらえるかが議論の分かれ目となる。障害胎児中絶の是非は一方で高等動物の、他方で嬰児や幼児の、殺害の是非の問題とも連関せざるを得ず、それら広範囲に及んで展開されている議論に目を通しながら、我々としての見解を確立することが求められる。障害胎児が「人」と連続性をもつ存在であることが否定し得ない以上、その中絶を殺「人」でないと主張することは不合理である―これが我々の見解である。 結局、是認論は、それが殺人ではあっても、許される殺人であるとの立場からのみ可能であろう。ではいかなる意味で許されるのか。その検討は是認がどこにどう立つことであるかを明らかにする。しかし問題を真に哲学的=倫理学的に十分に論じるためには、そもそも殺人禁止はいかなる根拠に基づく、どこから与えられる命令であるのか(―それは「生きる権利」がいかなる根拠で、誰(何)から与えられるのか、ということと不可分な問題であるが)、是認・否認の立場はそれにどのようにかかわるのか、が明らかにされなければならない。命令の与え主が少なくとも「自然」、さらに遡れば自然の創造者(神)であることが見届けられるとき、自然環境破壊とは別の、もう一つの"自然破壊"が現代人の根底で進行していることが浮かび上がると共に、いったい我々はもはやどこに立って自己の正しさを主張し得るのか、―最根源的問いへ突き返される。
著者
山本 勝也
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.97-117, 2013

Economics has a great influence on thoughts and policies in modern society. Especially, recent neoliberal reforms are supported by beliefs on the freedom of economic activities and the adjustability of market mechanism. It is often said that Adam Smith advocated economic liberalism. Relying mainly on The Theory of Moral Sentiments and The Wealth of Nations, this paper shows the economic thought of Adam Smith and his intentions. Our results indicate that Smith didnʼt claim economic liberalism unconditionally but his economic thought is not enough to defend it. And we discuss the recent situation of economics and neoliberalism. Finally, we conclude that we need an interdisciplinary approach for the revolution in economics.
著者
加藤 和哉
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.149-162, 1998

In this essay I argued the concept of person which underlies some ethical issues today, such as moral justification of abortion, euthanasia of heavily disabled infants, etc. Michael Tooley, for example, argued that only those self-conscious are the 'person' who has full moral right to live. The argument has received much criticism (in Japan) that it presupposes a very narrow idea of a human being, namely person as rational self-conscious agent, which comes from John Locke or Immanuel Kant. The criticism on the other hand emphasizes the relational aspect of a human being and argues that, even if a fetus itself is not a 'person', he/she is for some others, such as his/her parents, a human being which must be morally protected. 1 point out that the 'relational aspect' of a human being is not supposed to consist in that being itself, but only in the concrete concern that others have to that being, because what the being itself is does not matter there. As a result, the anti-personal theory seems only to accept the case where a human being has nobody to have a concrete relation to him/her or the case where a human being is not treated as such by others. I hint at a more' fundamental problem that there is no other way to talk about a human being itself than as a self-conscious agent.