- 著者
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白石 孝
- 出版者
- 慶應義塾大学
- 雑誌
- 三田商学研究 (ISSN:0544571X)
- 巻号頁・発行日
- vol.40, no.5, pp.27-44, 1997-12-25
本稿は,昭和7年に,現在の日本橋堀留町1丁目となった江戸から明治・大正・昭和にかけての古い町,新材木町の商業史視点にたつ歴史的素描である。すでにこの隣の町,新乗物町(同じ現堀留町1丁目)については,本誌40巻4号に記載してあるが,いずれも,拙著の「日本橋界隈の問屋と街」の延長線上にある研究覚書である。「新材木町」の町名由来記から始まり,江戸時代におけるこの町の特色を,堀留川と椙森稲荷神社の存在から把えてみた。東堀留川に沿った細長いこの町は,竹木薪炭・米の集散地として賑わったが,本稿では同じ堀留川に接する堀江町と比較して,ロケーションがもたらす町の商業活動の相異に着目する。一方,新材木町の東側は椙森稲荷神社があり,下水石新道がある坂道のような裏通りであったために,このあたりの様相は河岸側とは違うということをみて,新材木町はいわば相異なる二面性を持つ町であったことを指摘する。次いで明治期に入って,どのような店がこの町に生れたか,特に洋反物問屋の繁栄がこの町にもたらした影響と町の様相をみる。織物問屋が増え,なかでも杉村甚兵衛がここに大きな拠点を持つに至ったこと,堀留町2丁目の前川太郎兵衛・薩摩治兵衛のような金巾木綿問屋,日比谷平左衛門のような洋糸問屋の発展との関係でこの町をみ,同時にこの町の東側の裏通りに群生する店々にふれ,新しい町の二面性を明らかにする。またこの町と当時の成長品モスリンとの関係に論及する。こうした織物の発展にともない,新材木町も,多くの織物問屋が生れたが,それは人形町通り界隈の織物問屋街化と軌を一にするものといってよい。新材木町もこの観点から把えられるが,同時に,この町のもつ裏通りの店々をみるとき,人形町通り界隈にとっての生活同心円を形づくる町だったといえるのである。これを各町の生活関連商い業種別店数で明らかにしておいた。