著者
立平 進
出版者
長崎国際大学
雑誌
長崎国際大学論叢 (ISSN:13464094)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.43-53, 2003-01-31

本稿は、1600年4月19日(慶長5年3月16日)、大分県臼杵市佐志生の黒島海岸に漂着したとされるリーフデ号について、今まで、漂着とされていたものが、実は目的地であり、到着であったと訂正するのが課題である。本稿を要約すると、二つの視点から漂着というより到着であったという歴史的根拠を示すものである。第一点は、1600年以前の西洋において、東洋についての情報がどのように行われていたのか、ということである。当時西洋で作られた、西洋人が描いた日本の地図を見ることによって、日本の地理情報を基に来航したとするものであり、目的意識をもって日本を目指したものであったといえるのではないかという提示である。第二点は当時の歴史的背景である。日本近海に何らかの理由で来航した船について、政治的な理由や人道的な立場から「漂着」としたと見るのである。リーフデ号の場合は「漂着の状態であった」ということであり、たまたまそこへ流れ着いたというものではない、とするものである。そして現在、歴史的な経緯から、大方の解釈は、漂着ではなく到着であり来航であることが明白で、到着した時の状態が漂着と表現したほうがよいような状態であったということである。百歩譲っても、到着の時が漂着の状態であったためということと理解したい。このような理由から、「種子島にポルトガル人が来航」したとして、「オランダ人が初めて来航した」とか、「オランダ船の来航」と歴史的に表記すべきであると提案したい。筆者は「西洋人の描いた日本地図展」(1993年、長崎県立美術博物館主催)という展覧会を担当したことがあり、それを契機にオランダ船の最初の来航について、歴史的な解釈を示したものである。また長崎県立美術博物館には古地図コレクター松本賢一所蔵の古地図コレクションが寄贈されていたこともあり、それを機会に、筆者は、同時に別の西洋の日本古地図にかかわる企画展示を担当したのであった(「欧州古版日本地図展」平成5年7月)。その展覧会では、シーボルト(滞日期間1823-28)以前の西洋から、日本がどのように見られていたのかを知ることができるものであった。安土桃山時代から元禄時代にかけて、近世初期の頃の西洋との交流を証言する資料である。もう一つの見方をすれば、伊能忠敬(1745-1818)以前の日本の地理情報であり、マルロポーロの日本情報以後の歴史的な資料といえる。西暦1600年前後の日本について、西洋諸国で、大きな関心が払われていたということも、この展覧会から知ることになった。本稿にかかわるテーマは、その時からの持ち越であった。

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