著者
立平 進 Susumu TATEHIRA
出版者
長崎国際大学
雑誌
長崎国際大学論叢 = Nagasaki International University Review (ISSN:13464094)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.45-54, 2007-01

民俗学は、ある特定の地域を限って調査する場合が多く、所定の調査項目に従ってではあるが、主な手段として、いろいろな分野(角度)から聞き取り調査を実施することになる。その際、調査対象地域をどのように設定するのかという基本的な命題がある。調査対象地としての地域は、ただ単に地理的広がりの範囲を対象とするのではなく、民俗学的な領域について、その範囲を確定する必要があるからである。地域を認識することについて、過去に必ずしも充分に研究されてこなかった経緯がある。ほとんどの場合物理的に地理的広がりを地域として認識していたためである。ある地域に住む人々は、どのような広がりの中で生活していたのか、あるいは自らの生活範囲について、どのように認識しているのかということが問題であるのだが、これが民俗学的に明確に示された例は少ない。本稿では家と屋敷と村境について、比較的容易に境を示すことができる事例が抽出できたため、これを報告しながら境を区切るものは何かという表題に近付いていく手ががりとした。ここで取り上げたサブタイトルに記す「家札・門札・免札」は、民俗資料として、特に信仰の民具というべきものである。その信仰に触れながら、民具として機能している実態を考察した。
著者
立平 進
出版者
長崎国際大学
雑誌
長崎国際大学論叢 (ISSN:13464094)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.33-42, 2004-01-31

今から二千数百年前、中国大陸から直接、あるいは朝鮮半島を経由して日本列島にかなりの数の人々が渡来して来た。弥生時代が始まる頃のことである。日本文化の起源をこの時期に求める研究者は多く、それ以前の縄文文化とどのように日本文化をつくりあげてきたのか、根強い論争が続いでいる。いろいろな分野の研究者が諸説を展開して、夢とロマンに充ち溢れた研究領域ともいえる。筆者も、民俗学・民具学の研究を志す者として、歴史文化学の学際的研究から親近感をもって眺めてきた。近年、東シナ海の海流を知ることにより、「文化を運ぶ海流」として、九州が東アジアでどのような立場にあったのか、を考えている。本稿では、いくつかの実例を示しながら、文化の伝播について考えてみたのであるが、主体は徐福の東渡について取り上げた。日本国内には、徐福にまつわる伝説の地が30箇所以上もあるといわれ、佐賀市金立の徐福長寿館では、日本各地の徐福伝説の地として、21箇所を表示している。徐福の東渡については、中国の歴史書『史記』に記されている。中国思想史研究の福永光司によると徐福の東渡は歴史的な事実であると断言しているのである。さらに「徐福の出航は、文献実証学の立場から高い信憑性を持つ史書の記述によって検討考察するかぎり、その時期はわが国における弥生式文化の開始時期とほぼ重なり合う前三世紀の頃-正確には秦の始皇帝の即位二十八年目(B.C.219)後の数年間-であり、」と記す。これを東シナ海の海流の動きから見ると、どのような解釈ができるのか、ということを試みたものである。その結果、考古学的な成果と考え合わせて、ずれが生じていることも確認できるのであるが、伝説に歴史と考古学的な成果とを取り混ぜての論考で、学際的な試みとして、理解を得たいとするものである。
著者
立平 進
出版者
長崎国際大学
雑誌
長崎国際大学論叢 (ISSN:13464094)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.91-99, 2002-01-31

遠く,故郷を離れて,海を旅する人たちがいた。沖縄糸満の漁師たちは,黒潮に乗って高知県・三重県・千葉県沖へと出漁し,九州の西海岸沿いには対馬暖流で長崎県五島列島・対馬などへ出漁している。また,それとは別に,海外へは,台湾を経て,東南アジア・フィリピン諸島・ボルネオ・セレベス・マレー半島・スマトラへと出漁している。それが昭和20年の終戦を期にすべて終決したのである。本稿では,その中の一地域である,長崎県の沿岸域について記すことになる。そのきっかけとなったのは,糸満漁民の足跡とでもいうべき,ある行動の軌跡を文化財調査の折に確認したことからである。あるモノとは,沖縄糸満の漁師が,ビロウ樹の若芽を,追い込み漁のオドシとして使用するため,これを剥ぎ取るとき,ビロウ樹の幹に登った足跡が残されていたのである。足跡といっても,幹に登るための足掛かりとなる段々(決り込み)を付けたものであるが,それが漁民の移動を証明するものであることは一目瞭然であった。この足跡の主を求めて沖縄糸満の調査を実施したのである。筆者らが行なう民俗学的な調査では,聞き取り調査が主たる手段になるが,このように物証として残る場合はまれで,筆者にとっては衝撃的なできごとであった。結果的には,平戸の阿値賀島に上陸した人の証言を得ることができたため,聞き取り(伝承)と物証が一致したのである。
著者
立平 進
出版者
長崎国際大学
雑誌
長崎国際大学論叢 (ISSN:13464094)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.37-44, 2005

筆者は、「海を旅する人たち」のテーマで、いくつかの論考を記してきた。海を旅する人たちとは、決して楽な旅ではなく、旅の経緯が比較的不明なものが多く、名も無き人々や、記録に残らないような人たちの旅を記してきたつもりである。漁民は、その中心的な存在であるといえる。本稿では、瀬戸内海漁民の移動について、山口県熊毛郡平尾町佐合島の漁民が、対馬の峰町志多賀に出漁してきていたことを記したものであるが、これを聞き取り調査で明らかにすることができたため、漁民の移動の軌跡として記録したものである。近代になって、瀬戸内海漁民が長崎県の近海に出漁してくる経緯について、江戸時代からの歴史的な経緯もあったが、対馬に「各地ノ漁夫群来シテ種々ノ漁業ヲ営メリ」(下啓介、本文注2)と記されるように、遠くから好漁場であった西海地域に各地の漁師が出漁してくる背景についても考察したものである。また、長崎県の漁民が離島へ出漁していく経緯について、民俗学的な調査により明らかにされたものを、旅の歴史・庶民の交流の歴史として提示したものである。
著者
立平 進 Susumu TATEHIRA
出版者
長崎国際大学
雑誌
長崎国際大学論叢 = Nagasaki International University Review (ISSN:13464094)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.13-22, 2008-03

本稿は、平戸藩の窯業が、いつ頃から産業として定着したのかを考察するのが目的である。今日まで、あまり知られていなかった『平戸焼沿革一覧』を読み解きながら検証を行った。さらに『平戸焼沿革一覧』と『平戸藩御用窯総合調査報告書』の発掘事例とを突き合わせて検討することにより、歴史資料(文献)と考古学的な知見を関連付けた。結果は、松浦鎮信(天祥公)の時代に三川内焼が安定した産業となったことを論じたものである。
著者
立平 進
出版者
長崎国際大学
雑誌
長崎国際大学論叢 (ISSN:13464094)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.43-53, 2003-01-31

本稿は、1600年4月19日(慶長5年3月16日)、大分県臼杵市佐志生の黒島海岸に漂着したとされるリーフデ号について、今まで、漂着とされていたものが、実は目的地であり、到着であったと訂正するのが課題である。本稿を要約すると、二つの視点から漂着というより到着であったという歴史的根拠を示すものである。第一点は、1600年以前の西洋において、東洋についての情報がどのように行われていたのか、ということである。当時西洋で作られた、西洋人が描いた日本の地図を見ることによって、日本の地理情報を基に来航したとするものであり、目的意識をもって日本を目指したものであったといえるのではないかという提示である。第二点は当時の歴史的背景である。日本近海に何らかの理由で来航した船について、政治的な理由や人道的な立場から「漂着」としたと見るのである。リーフデ号の場合は「漂着の状態であった」ということであり、たまたまそこへ流れ着いたというものではない、とするものである。そして現在、歴史的な経緯から、大方の解釈は、漂着ではなく到着であり来航であることが明白で、到着した時の状態が漂着と表現したほうがよいような状態であったということである。百歩譲っても、到着の時が漂着の状態であったためということと理解したい。このような理由から、「種子島にポルトガル人が来航」したとして、「オランダ人が初めて来航した」とか、「オランダ船の来航」と歴史的に表記すべきであると提案したい。筆者は「西洋人の描いた日本地図展」(1993年、長崎県立美術博物館主催)という展覧会を担当したことがあり、それを契機にオランダ船の最初の来航について、歴史的な解釈を示したものである。また長崎県立美術博物館には古地図コレクター松本賢一所蔵の古地図コレクションが寄贈されていたこともあり、それを機会に、筆者は、同時に別の西洋の日本古地図にかかわる企画展示を担当したのであった(「欧州古版日本地図展」平成5年7月)。その展覧会では、シーボルト(滞日期間1823-28)以前の西洋から、日本がどのように見られていたのかを知ることができるものであった。安土桃山時代から元禄時代にかけて、近世初期の頃の西洋との交流を証言する資料である。もう一つの見方をすれば、伊能忠敬(1745-1818)以前の日本の地理情報であり、マルロポーロの日本情報以後の歴史的な資料といえる。西暦1600年前後の日本について、西洋諸国で、大きな関心が払われていたということも、この展覧会から知ることになった。本稿にかかわるテーマは、その時からの持ち越であった。