- 著者
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荒井 直
- 出版者
- 山梨英和大学
- 雑誌
- 山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
- 巻号頁・発行日
- vol.26, pp.81-94, 1992-12-10
アリストパネスの喜劇『雲』を、その主人公がどういう意味で愚かなのかを中心に、検討する。(一)まず、主人公ストレプシアデスは、(1)物覚えが悪く、(2)現実的・実用的なこと以外には興味がなく、(3)多分にアルカイックな心性を保存し・考え方が旧弊であるという点で、またソクラテス以下「学校」関係者との対比で、一見愚かであるかに描かれていることを明らかにする。(二)次に、「学校」関係者は、(1)仲間うちだけで結社をつくり、(2)主として「自然科学」関係と「弁論術」関係の研究と教育に従事するが、現実的・実用的な主人公のニーズに応じられないことのうらがえしとして、ポリスの現実から遊離・隔絶していることが指摘される。(三)さらに、「落ちこぼれ」と「優等生」の父子の違いに注目することで、(1)ソクラテスの「学校」の教育は、必賞必罰の神々の存在を否定し、(2)そのことで、父祖伝来の神々、ノモス(法・慣習)に根ざすオイコス(家)を破壊するものであること、『雲』は、(3)主人公が、痛い目に会わなければ、(1)と(2)を分らなかったという点で愚かであるとする喜劇であると解釈した。