20 0 0 0 全能の神

著者
深津 容伸
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.A25-A30, 2008

聖書が語る神が「全能者」であることは、日本人にもよく知られている。というよりも、そのことが定着している現代においては、「神」という言葉を口にし、「神」という存在を想い浮かべるだけで、無意識に、(有神論者はもちろん、無神論者にとっても)目に見えない全能の神として把握されているのではないだろうか。これはキリスト教の宣教の結果によるものであり、それまでの日本人にとっては、「神」は神々の総称であり、神も仏も同列であって、人間を超えた存在ではあっても、全能というほど力あるものでも、絶対的なものでもなかった。古代イスラエルでは、拝一神教(神々の中で、一つの神のみを自分の神とする)であったので、存在自体も、力においても、超越性は高いものであったが、それは相対的なものであって、絶対的なものではなかったと考えられる。つまり、神にも不可能が存在していることは、人々も知っていたのである。むしろ、彼らにとって、神は人間に常に目を注ぎ、関わり続け、人の喜び、悲しみを自らのものとして受けとめ、ともに歩む存在なのである。本稿は、今や常識中の常識である「全能者」という概念がどのように生じたかを明らかにし、聖書の神がいかなるものであるかを問い直すものである。
著者
田中 健夫
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.8-17, 2012

本稿の目的は,いじめの加害をめぐる一連の体験が,加害生徒の自己概念にどのような影響を及ぼすかについて,中学校養護教諭に対する半構造化面接を通して検討することである。養護教諭が関与した計7事例をKJ法により整理した。その結果,指導を受けとめた反応の一方で,加害生徒が納得できずに自分の感情を表現しないまま,被害者との心身の状態悪化の共振が起こったり,自己について無価値感を抱く過程が考察された。そこでは,加害にまつわる気持ちを他者との関係性のなかで表し,閉じた関係から離れて立ち直るような場がみいだされてやっと変化が可能となっていた。そして,外から押しつけられたと感じられている罪悪感を,自ら引き受けるものへと転換させる支援について検討をおこなった。
著者
荒井 直
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.17-35, 1996-12-10

「いま私たちが普通に行っていること」を考^^ヽえ^^ヽる^^ヽ。そういうことをしてみた。現在の生活世界は、自明と見なされているにせよ違和感を伴ってであるにせよ、実際に生きられている、或は、生きさせられてしまっているので、そのままでは問題にしにくい。そこで、この生活世界で中心的な活動である 「労働」に論点を絞り、その論件を、(1)この世界とそこに適合的な人間類型の形成にあたって一つの影響を及ぼした「キリスト教文化」と(2)この世界とは異質な生活世界と異質な人間類型をもっている-と私には思われる-古代ギリシアとを媒介にして、検討してみた。この問題に取り組む限りで、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とハンナ・アーレント『人間の条件』を考察したが、この二著を主題として論じたわけではない。
著者
稲垣 伸一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.170-158, 1995-12-10

19世紀末アメリカの消費社会では、人々の購買意欲を刺激して消費へと向かわせるさまざまな戦略が登場した。その代表として挙げられるのが、豊富な商品を分類し、効果的に照明をあててショーケースの中に入れたデパート、さらにその展示の場を印刷物に移したカタログ商法である。消費社会の中で商品は必要に迫られて購入されるより、展示の方法や広告によってイメージが増幅させられた結果購入されるものへとその性質が変えられていく。言い換えれば商品はその本質的価値のために実用に供されるのではなく、豊かさや知的満足などへの欲求を充足するものとして流通し、人々の欲望を刺激する記号へと変化した。ヘンリー・ジェイムズの『ポイントンの蒐集品』では、集められた美術品や骨董品がそれ自体の価値よりも、登場人物たちの共通のコードの中で負わされた役割ゆえに争われると考えられる。本稿では、登場人物により意味が変化させられる蒐集品の性質を消費社会という文脈の中で読み、同時にそこに込められた作者ジェイムズのアメリカ消費文化に対する感情についても検討していく。
著者
稲垣 伸一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.98-82, 2001-02-28

1840年代のアメリカ合衆国では、フランスの社会改革思想家シャルル・フーリエの思想が輸入され、ファランクスと呼ばれる実験的共同社会が各地で形成された。また1848年フォックス姉妹によりラッピングと呼ばれる霊との交信が報告されて以来、スピリチュアリズムと呼ばれる思想が流行した。この二つは奴隷制廃止や初期のフェミニズム思想など社会改革思想を共有し、まだ現代的意味における「科学」という概念が確立されていなかった当時、現代的意味での科学と疑似科学による経験的実証主義をもってそれら改革思想の正当性を主張した結果、互いが関連しあいながら19世紀半ばのアメリカにおける社会改革運動の一翼を担ったと考えられる。一方、ナサニエル・ホーソンの小説The House of the Seven Gablesでは、こうした社会改革運動の特徴を反映して、複数の登場人物により「科学的」改革思想のレトリックが反復される。本稿では,科学的言説と結びついた改革思想を作品より抽出し、フーリエ主義とスピリチュアリズムが協調して提示した理想の社会実現に向けての展望をこの作品から考察していく。
著者
山田 吉郎
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.103-113, 1996-12-10

吉本ばななの『キッチン』は、最後の肉親である祖母を失った女子大生桜井みかげが、その心の痛手から立ち直ってゆく過程を描いた小説であるが、その生の回復の仕方を、主人公が一時期傷心の身を寄せた奇妙な擬似的家庭(田辺親子)との関連の中で考察した。擬似的母親であるえり子の歪曲化された生の回復と照らし合わせる形で、主人公みかげの傷心からの回復の特質を分析した。その際、吉本の処女作『ムーンライト・シャドウ』や彼女と同時期に話題をまいた俵万智短歌との関連、さらに性差や身体感覚、ボーダーレスなど今日的な文化現象とのつながりを視野に入れて展望を試みた。
著者
後藤 晶
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.32-48, 2013

本論文においては,公共財ゲーム実験(Public Goods Experiments)について,その基本的枠組みおよび先行研究について特に,実験研究に着目して整理する.公共財ゲームとは排除不可能性および非競合性を有する公共財について,ゲーム理論的に記述したものである.協力行動や社会的厚生に関する分析の枠組みとして用いられるものであり,汎用性の高いものである.例えば,自発的貢献メカニズムの解明や経済行動の分析などに用いられてきた.また,様々な学問領域に渡って研究が積み重ねられてきた枠組みである.特に,経済学および心理学領域で積み重ねられてきた実験研究は新古典派経済学が仮定する合理的経済人の行動とは乖離した結果が見られており,新たなモデルの必要性が示唆されている.また,ゲーム理論の枠組みは経済学・心理学的な枠組みのみならず,文化的観点も考慮した新たな人間行動の説明原理となり得ることが示唆されている.
著者
白倉 一由
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.13-30, 1997-12-10

『源五兵衛おまん 薩摩歌』は『曽根崎心中』に次いで世話浄瑠璃二作目の模索期の作品である。時間的・空間的に近松の時代から離れた事件を題材にした作品なので、事件の真相は不明で、既成の僅かの歌謡又は西鶴の『好色五人女』巻五「恋の山源五兵衛物語」によってイメージを得、近松独自の世界を創造したのである。この期の近松は浄瑠璃から離れた観客を呼び戻すかに創作意図があった。浄瑠璃から離れた観客を引き寄せるには娯楽性・滑稽性・大衆演劇性がなければならない。この構想によって創作されたものが『源五兵衛おまん薩摩歌』である。従って特に構成を考えた作品である。二組の恋物語を複合する事によって、内容の展開を複雑にさせ、又歌舞伎のやつしなどの歌舞伎の方法を用いて観客に魅力を出そうとしている。主題は男女の誠実な恋であるが、エロスが極端に表現されている箇所があり、主題を分裂させているように思われる。人物は類型化されており、展開に現実性が希薄で、仮構された作品であり、『曽根崎心中』よりも後退した模索期の作品である。
著者
深津 容伸
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.A17-A25, 2010

日本にキリスト教プロテスタントによる宣教が開始されてから、150年以上になるが、その特徴の一つとしていえることは、学校、すなわちミッションスクールの設立に力を注いできたことである。現在ミッションスクールは、(沖縄から北海道に至るまで)定着し、根付いている。日本のキリスト教人口が1%に満たない現状を考えると、日本人はキリスト教信仰は退けたが、(そこで行われているキリスト教教育を含めて)教育機関としてのミッションスクールは受け入れたといえるであろう。 山梨英和学院(以下山梨英和)の場合、当時交通の便の悪い内陸の地という悪条件にもかかわらず、山梨の青年キリスト者たちの熱心な働きかけが、カナダメソジスト教会の宣教団体を動かし、設立されるに至った。本稿では、この時の日本の社会状況、日本人側、カナダメソジスト教会の宣教団体側双方の思いを掘り起こすとともに、どのように山梨英和は地域社会に受け入れられてきたか、また、山梨の諸教会との繋がりはいかなるものであったかを探り、ミッションスクールの教育のあり方、とらえ方を論じる。
著者
荒井 直
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.77-93, 1994-12-10

「子殺し」とそれをめぐるモノローグに焦点を絞らずにエウリピデスの『メーディア』のもつ一つの側面について一解釈を提出する。まず、(一)メーディアをとりまく男たちの造型のされ方として「父」として「子供」と「家」に関心が集約されていることを碓認する。つぎに、(二)メーディアの四^^、つ^^、の^^、殺人の特徴を検討し、(イ)「子供」を介して「父」と「家」に打撃を与えるという流儀のあること、(ロ)殺人の場所がはとんど例外なく家の「内」、「竃(ヘスティア)」の傍であることを示し、この劇は、家の「外」・男性・公的領域と家の「内」・女性・私的領域の対立が踏まえられていることを見る。さらに(三)で、その対立は、劇場の空間表象をも巧みに利用していること、そしてメーディアの語る言葉が(二)でみた二つの領域に対応する劇場の二つの場の相違に応じて変容を蒙ることをたどる。そして、(四)メーディアの自滅は、この劇での「言葉」の崩壊とより添っていること、すなわち、『メーディア』は「言葉」の崩壊をめぐる悲劇でも あるとの解釈を呈示する。
著者
戸田 勉
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.A69-A83, 2010

本稿では、「無冠の帝王」と呼ばれた19世紀アイルランドの政治家で、自治運動の指導者であったチャールズ・スチュアート・パーネルの死が、アイルランドを代表する二人の作家ジェイムズ・ジョイスとW・B・イェイツにどのような影響を及ぼしたかについて、ゴシック的な観点を軸にして考察した。 ジョイスは、「パーネルの亡霊」というエッセイを発表し、パーネルを裏切ったアイルランド人を激しく糾弾したが、その後彼の作品からはパーネル主義が徐々に影を潜め始める。この変化は、アイルランドにおけるかつての共同体の崩壊をジョイスが認識したことと深く関わる。その認識から、ジョイスはパーネルを脱神格化・世俗化させる方向に向かった。 一方、イェイツは、貴族主義の模範としてパーネルを崇拝し、彼の死に気高い犠牲の精神を見た。イェイツは、パーネルの亡霊や葬儀を歌い、彼の不在を嘆き続けるが、最後には、祝祭的な詩によってパーネルを賛美する。ジョイスと同じように、共同体の崩壊を感じ取ったイェイツではあるが、彼はそこから失われたものの再構築に向かう。そのため、イェイツはパーネルの死を儀式化し、神話化する必要があった、と結論付けた。
著者
石田 千尋
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.1-32, 2011

本稿は、上代から中世までの、富士山についての記述をもつ文学作品の表現の分析を通して、古典文学における富士山像の形成と展開の過程を明らかにすることを主たる課題とする。具体的には、常雪を戴く神としての山、人知れぬ情火に燃える山、仙女かぐや姫の本拠としての山、仏のやどる山、などのイメージが、文学作品の解釈を通して形成されてゆく点を中心に論じた。なお本稿は、『山梨県富士山総合学術調査研究報告書』(二○一二年三月)所収の「富士山と文学上代〜中世」にまとめた富士山の文学史的概説に対する、各論的論考に当たるものである。
著者
戸田 勉
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.47-57, 1992-12-10

本稿は、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』第二挿話「セイレーン」における技法「カノン形式のフーガ」の一側面を考察したものである。これまでこの技法に関して繰り広げられてきたさまざまな議論を踏まえつつ、フーガ形式の模倣反復という特質を「逃走」と「追跡」という動きに還元し、その観点から挿話全体の構成を分析した。一では、人物の外面的な動きを中心に考察し、ブルームにとってセイレーンとは誰(何)かについて探った。二ではーブルームの内面的な動きを追い、セイレーンの本当の姿について検討を加えた。三では、「丸刈り組」という曲とフルームの関係から、別な種類のセイレーンの正体を突きとめ、この挿話のもう一つの主題について考えた。