著者
荒井 直
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.17-35, 1996-12-10

「いま私たちが普通に行っていること」を考^^ヽえ^^ヽる^^ヽ。そういうことをしてみた。現在の生活世界は、自明と見なされているにせよ違和感を伴ってであるにせよ、実際に生きられている、或は、生きさせられてしまっているので、そのままでは問題にしにくい。そこで、この生活世界で中心的な活動である 「労働」に論点を絞り、その論件を、(1)この世界とそこに適合的な人間類型の形成にあたって一つの影響を及ぼした「キリスト教文化」と(2)この世界とは異質な生活世界と異質な人間類型をもっている-と私には思われる-古代ギリシアとを媒介にして、検討してみた。この問題に取り組む限りで、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とハンナ・アーレント『人間の条件』を考察したが、この二著を主題として論じたわけではない。
著者
荒井 直
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.77-93, 1994-12-10

「子殺し」とそれをめぐるモノローグに焦点を絞らずにエウリピデスの『メーディア』のもつ一つの側面について一解釈を提出する。まず、(一)メーディアをとりまく男たちの造型のされ方として「父」として「子供」と「家」に関心が集約されていることを碓認する。つぎに、(二)メーディアの四^^、つ^^、の^^、殺人の特徴を検討し、(イ)「子供」を介して「父」と「家」に打撃を与えるという流儀のあること、(ロ)殺人の場所がはとんど例外なく家の「内」、「竃(ヘスティア)」の傍であることを示し、この劇は、家の「外」・男性・公的領域と家の「内」・女性・私的領域の対立が踏まえられていることを見る。さらに(三)で、その対立は、劇場の空間表象をも巧みに利用していること、そしてメーディアの語る言葉が(二)でみた二つの領域に対応する劇場の二つの場の相違に応じて変容を蒙ることをたどる。そして、(四)メーディアの自滅は、この劇での「言葉」の崩壊とより添っていること、すなわち、『メーディア』は「言葉」の崩壊をめぐる悲劇でも あるとの解釈を呈示する。
著者
大西 直樹 岩切 正一郎 生駒 夏美 佐野 好則 クリステワ ツベタナ 小玉 クリスティーヌ サイモンズ クリストファー 松田 隆美 荒井 直 本山 哲人
出版者
国際基督教大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2008

文学研究と文学教育のあり方を、ことに教養学部の領域で扱うことの問題点と可能性とを国際比較し、今後の展望を探る目的で、イギリス、アメリカ、フランスの主要な大学における経験豊かな文学担当の研究者と直接に長時間の面談による情報集種をおこない、それを日本での現状にどのように反映できるか検討した。
著者
荒井 直
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.13-27, 2000

(一)で、「表現文化」と「ギリシアの演劇」とを関連づける課題を示す。(二)では、(1)「表現」は実体としてあるのではなく、人間の主体的享受過程を媒介にした現象として成立すること、(2)「文化」の「表現」には直示・共示が重層していることを例示する。(三)では、「表現」・「文化」を軸にして何らかの現象を扱う場合、(1)「表現文化」はその対象の大きさゆえに原理的に基礎論や方法論が整備され得ないため、「ディシプリン」として研究・教育が不可能だろうという問題点が予想されること。しかしその反面で、とくに(2)「表現」という概念は、研究の伽になっているような不要な概念を再検討するため、また従来の専門の枠を超えて自由に対象にアプローチするため、有効に機能する可能性があること。この二点を論じた。(四)において、ポリス・アテナイの「民主政につよく規定された文化」のなかに、ドラマ上演という「表現=行為」を位置づけるというアプローチが、ドラマのもつ文化=政治的アスペクトの理解において有効であること管見する。(五)には、いささか主観的な考えを述べた。
著者
荒井 直
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.121-146, 2017 (Released:2020-07-21)

E. M. フォスターの小説『眺めのいい部屋』(1908年)に、フィレンツェのサンタ・クローチェ寺院で、ジョットの壁画を前に、イギリス人牧師が同じ国から来た観光客に次のように語る場面がある。「この教会が、ルネサンスの汚染が現れる以前、中世のまことに篤き信仰心から建てられたことを思い出してください。このジョットのフレスコ画は、あいにく今では修復によって損なわれてしまってはおりますが、これらがいかに解剖学や遠近法の罠にとらわれずにいるか、ご覧ください」。当時のフォスター(を読むほどの階級)の読者には、この牧師の言葉が、中世美術礼讃者で(ありオックスフォード大学スレイド美術講座教授でも)あったジョン・ラスキンの『フィレンツェの朝:イギリス人旅行者のための手短なキリスト教美術研究』(1875-77 年)の安直な受け売りであることが分かったのではないだろうか。ジョットの壁画を、ルネサンス美術の嚆矢とすべきか中世美術最後の達成とすべきか、あるいは、それ以外の把握の仕方があるのか、私は知らない。しかし、ルターの神学が、 宗教改革という「汚染が現れる以前」の「中世のまことに篤き信仰心から建てられた」ものであり、 今私たちが当たり前だとするルター像は、もしかすると、プロテスタント(とくにルター派)の神学や教理史による「修復によって損なわれてしまって」いるのではないか、という疑問は当然あり得るだろう。『眺めのいい部屋』の牧師は悪役であるが、この疑問について、彼と同じように先学の著作の受け売りをするという悪役をつとめ、さらに、宗教改革に帰結したルターの「神学的突破」をもたらした「中世」的背景を、もう少し大きな窓から眺めるというのが、附論2での私の課題である。 受け売りなので引用が多く読みにくく、かつ講座参加者とのティータイムのトークで与えられた課題に長めの注で対応したりしたのでくどいエッセイではなってしまったのではないかと危惧するが、キリスト教の現状や人間の文化の来し方行く末について思いを廻らせる一助となればと念う。
著者
荒井 直
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.81-94, 1992-12-10

アリストパネスの喜劇『雲』を、その主人公がどういう意味で愚かなのかを中心に、検討する。(一)まず、主人公ストレプシアデスは、(1)物覚えが悪く、(2)現実的・実用的なこと以外には興味がなく、(3)多分にアルカイックな心性を保存し・考え方が旧弊であるという点で、またソクラテス以下「学校」関係者との対比で、一見愚かであるかに描かれていることを明らかにする。(二)次に、「学校」関係者は、(1)仲間うちだけで結社をつくり、(2)主として「自然科学」関係と「弁論術」関係の研究と教育に従事するが、現実的・実用的な主人公のニーズに応じられないことのうらがえしとして、ポリスの現実から遊離・隔絶していることが指摘される。(三)さらに、「落ちこぼれ」と「優等生」の父子の違いに注目することで、(1)ソクラテスの「学校」の教育は、必賞必罰の神々の存在を否定し、(2)そのことで、父祖伝来の神々、ノモス(法・慣習)に根ざすオイコス(家)を破壊するものであること、『雲』は、(3)主人公が、痛い目に会わなければ、(1)と(2)を分らなかったという点で愚かであるとする喜劇であると解釈した。