- 著者
-
荒井 直
- 出版者
- 山梨英和学院 山梨英和大学
- 雑誌
- 山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
- 巻号頁・発行日
- vol.16, pp.121-146, 2017 (Released:2020-07-21)
E. M. フォスターの小説『眺めのいい部屋』(1908年)に、フィレンツェのサンタ・クローチェ寺院で、ジョットの壁画を前に、イギリス人牧師が同じ国から来た観光客に次のように語る場面がある。「この教会が、ルネサンスの汚染が現れる以前、中世のまことに篤き信仰心から建てられたことを思い出してください。このジョットのフレスコ画は、あいにく今では修復によって損なわれてしまってはおりますが、これらがいかに解剖学や遠近法の罠にとらわれずにいるか、ご覧ください」。当時のフォスター(を読むほどの階級)の読者には、この牧師の言葉が、中世美術礼讃者で(ありオックスフォード大学スレイド美術講座教授でも)あったジョン・ラスキンの『フィレンツェの朝:イギリス人旅行者のための手短なキリスト教美術研究』(1875-77 年)の安直な受け売りであることが分かったのではないだろうか。ジョットの壁画を、ルネサンス美術の嚆矢とすべきか中世美術最後の達成とすべきか、あるいは、それ以外の把握の仕方があるのか、私は知らない。しかし、ルターの神学が、 宗教改革という「汚染が現れる以前」の「中世のまことに篤き信仰心から建てられた」ものであり、 今私たちが当たり前だとするルター像は、もしかすると、プロテスタント(とくにルター派)の神学や教理史による「修復によって損なわれてしまって」いるのではないか、という疑問は当然あり得るだろう。『眺めのいい部屋』の牧師は悪役であるが、この疑問について、彼と同じように先学の著作の受け売りをするという悪役をつとめ、さらに、宗教改革に帰結したルターの「神学的突破」をもたらした「中世」的背景を、もう少し大きな窓から眺めるというのが、附論2での私の課題である。 受け売りなので引用が多く読みにくく、かつ講座参加者とのティータイムのトークで与えられた課題に長めの注で対応したりしたのでくどいエッセイではなってしまったのではないかと危惧するが、キリスト教の現状や人間の文化の来し方行く末について思いを廻らせる一助となればと念う。