著者
荒井 直
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.17-35, 1996-12-10

「いま私たちが普通に行っていること」を考^^ヽえ^^ヽる^^ヽ。そういうことをしてみた。現在の生活世界は、自明と見なされているにせよ違和感を伴ってであるにせよ、実際に生きられている、或は、生きさせられてしまっているので、そのままでは問題にしにくい。そこで、この生活世界で中心的な活動である 「労働」に論点を絞り、その論件を、(1)この世界とそこに適合的な人間類型の形成にあたって一つの影響を及ぼした「キリスト教文化」と(2)この世界とは異質な生活世界と異質な人間類型をもっている-と私には思われる-古代ギリシアとを媒介にして、検討してみた。この問題に取り組む限りで、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とハンナ・アーレント『人間の条件』を考察したが、この二著を主題として論じたわけではない。
著者
稲垣 伸一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.170-158, 1995-12-10

19世紀末アメリカの消費社会では、人々の購買意欲を刺激して消費へと向かわせるさまざまな戦略が登場した。その代表として挙げられるのが、豊富な商品を分類し、効果的に照明をあててショーケースの中に入れたデパート、さらにその展示の場を印刷物に移したカタログ商法である。消費社会の中で商品は必要に迫られて購入されるより、展示の方法や広告によってイメージが増幅させられた結果購入されるものへとその性質が変えられていく。言い換えれば商品はその本質的価値のために実用に供されるのではなく、豊かさや知的満足などへの欲求を充足するものとして流通し、人々の欲望を刺激する記号へと変化した。ヘンリー・ジェイムズの『ポイントンの蒐集品』では、集められた美術品や骨董品がそれ自体の価値よりも、登場人物たちの共通のコードの中で負わされた役割ゆえに争われると考えられる。本稿では、登場人物により意味が変化させられる蒐集品の性質を消費社会という文脈の中で読み、同時にそこに込められた作者ジェイムズのアメリカ消費文化に対する感情についても検討していく。
著者
稲垣 伸一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.98-82, 2001-02-28

1840年代のアメリカ合衆国では、フランスの社会改革思想家シャルル・フーリエの思想が輸入され、ファランクスと呼ばれる実験的共同社会が各地で形成された。また1848年フォックス姉妹によりラッピングと呼ばれる霊との交信が報告されて以来、スピリチュアリズムと呼ばれる思想が流行した。この二つは奴隷制廃止や初期のフェミニズム思想など社会改革思想を共有し、まだ現代的意味における「科学」という概念が確立されていなかった当時、現代的意味での科学と疑似科学による経験的実証主義をもってそれら改革思想の正当性を主張した結果、互いが関連しあいながら19世紀半ばのアメリカにおける社会改革運動の一翼を担ったと考えられる。一方、ナサニエル・ホーソンの小説The House of the Seven Gablesでは、こうした社会改革運動の特徴を反映して、複数の登場人物により「科学的」改革思想のレトリックが反復される。本稿では,科学的言説と結びついた改革思想を作品より抽出し、フーリエ主義とスピリチュアリズムが協調して提示した理想の社会実現に向けての展望をこの作品から考察していく。
著者
仲佐 秀雄
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.114-102, 1995-12-10 (Released:2020-07-20)

前号所載の「情報・通信メディアの規制とルール」に引き続き、その各論の一つとして、情報発信の「真実性」確保を採り上げた。この点について新聞では自律的倫理に委ねられているが、放送では「報道は事実をまげないですること」などの法規制があること。過去の誤報事例や最近のオウム報道における捜査中間情報の「確認」のありようなどを通じ、報道組織体の中の「コンプアメーション」のシステムについて検討を行った。
著者
山田 吉郎
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.103-113, 1996-12-10

吉本ばななの『キッチン』は、最後の肉親である祖母を失った女子大生桜井みかげが、その心の痛手から立ち直ってゆく過程を描いた小説であるが、その生の回復の仕方を、主人公が一時期傷心の身を寄せた奇妙な擬似的家庭(田辺親子)との関連の中で考察した。擬似的母親であるえり子の歪曲化された生の回復と照らし合わせる形で、主人公みかげの傷心からの回復の特質を分析した。その際、吉本の処女作『ムーンライト・シャドウ』や彼女と同時期に話題をまいた俵万智短歌との関連、さらに性差や身体感覚、ボーダーレスなど今日的な文化現象とのつながりを視野に入れて展望を試みた。
著者
白倉 一由
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.13-30, 1997-12-10

『源五兵衛おまん 薩摩歌』は『曽根崎心中』に次いで世話浄瑠璃二作目の模索期の作品である。時間的・空間的に近松の時代から離れた事件を題材にした作品なので、事件の真相は不明で、既成の僅かの歌謡又は西鶴の『好色五人女』巻五「恋の山源五兵衛物語」によってイメージを得、近松独自の世界を創造したのである。この期の近松は浄瑠璃から離れた観客を呼び戻すかに創作意図があった。浄瑠璃から離れた観客を引き寄せるには娯楽性・滑稽性・大衆演劇性がなければならない。この構想によって創作されたものが『源五兵衛おまん薩摩歌』である。従って特に構成を考えた作品である。二組の恋物語を複合する事によって、内容の展開を複雑にさせ、又歌舞伎のやつしなどの歌舞伎の方法を用いて観客に魅力を出そうとしている。主題は男女の誠実な恋であるが、エロスが極端に表現されている箇所があり、主題を分裂させているように思われる。人物は類型化されており、展開に現実性が希薄で、仮構された作品であり、『曽根崎心中』よりも後退した模索期の作品である。
著者
荒井 直
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.77-93, 1994-12-10

「子殺し」とそれをめぐるモノローグに焦点を絞らずにエウリピデスの『メーディア』のもつ一つの側面について一解釈を提出する。まず、(一)メーディアをとりまく男たちの造型のされ方として「父」として「子供」と「家」に関心が集約されていることを碓認する。つぎに、(二)メーディアの四^^、つ^^、の^^、殺人の特徴を検討し、(イ)「子供」を介して「父」と「家」に打撃を与えるという流儀のあること、(ロ)殺人の場所がはとんど例外なく家の「内」、「竃(ヘスティア)」の傍であることを示し、この劇は、家の「外」・男性・公的領域と家の「内」・女性・私的領域の対立が踏まえられていることを見る。さらに(三)で、その対立は、劇場の空間表象をも巧みに利用していること、そしてメーディアの語る言葉が(二)でみた二つの領域に対応する劇場の二つの場の相違に応じて変容を蒙ることをたどる。そして、(四)メーディアの自滅は、この劇での「言葉」の崩壊とより添っていること、すなわち、『メーディア』は「言葉」の崩壊をめぐる悲劇でも あるとの解釈を呈示する。
著者
武田 武長
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.1-15, 1996-12-10 (Released:2020-07-20)

戦後日本のキ-スト教にとって、克服しなければならない過去、清算しなければならない過去-それも日本のキリスト者にとって特別な最も深刻な過去とは何かを考えることは、いぜんとして根本問題である。これは、その日本のキリスト教の根本問題を、戦時下のドイツのキリスト教との同時代史的な比較をとおして、天皇制とのかかわりで明らかにしようとしたものである。戦後五十一年の今あらためて日本のキリスト教の過去を真攣にふりかえるならば、戦時下におかされたその罪が単に戦争協力という程度のものではなかったことは明らかである。それは、「国民儀礼」という名のもとに天皇教儀礼を受け入れ、神と並べて「天皇」と「皇国」を置いた罪、その実は「天皇」と「皇国」を神の御座の上に置いた偶像礼拝の罪であった。これは日本のキリスト教にとってまことに深刻な過去である。本来は、この過去の克服をぬきにして戦後の日本のキリスト教の再出発はありえなかったはずである。それはキリスト教会についてばかりでなく、キリスト教系学校についても妥当することなのである。
著者
仲佐 秀雄
出版者
山梨英和学院 山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.148-134, 1994-12-10 (Released:2020-07-20)

電気通信技術の革新と通信・放送の業態変化により、プレスと電気通信メディアの差別、周波数の稀少性、放送と通信の境界などに本質変化が生じている。しかし、現行の情報・通信メディアに対する公規制と倫理コードの構成を、(A)自由原則、(B)主体・業務規制、(C)編集方針規制、(D)通信内容・表現規制、(E)広告規制の5分類の下に整理してみると、放送・通信に関しては、(B)(C)(D)の各分野にわたって、広汎で、かつ本来公権力の関与になじまない公規制が存在し、憲法21条の「一切の表現の自由」の保障を空洞化している面が少なくない。それに伴って、メディア自主規制の内容にも、公規制の排除予防のために機能するよりも、公規制の補充補強に働くものが見られる。公規制・自主規制の今後の指向の一つとして、ユーザー・市民のチャンネル利用、リース、発信などの機会を拡大する方向が考えられる。
著者
戸田 勉
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.47-57, 1992-12-10

本稿は、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』第二挿話「セイレーン」における技法「カノン形式のフーガ」の一側面を考察したものである。これまでこの技法に関して繰り広げられてきたさまざまな議論を踏まえつつ、フーガ形式の模倣反復という特質を「逃走」と「追跡」という動きに還元し、その観点から挿話全体の構成を分析した。一では、人物の外面的な動きを中心に考察し、ブルームにとってセイレーンとは誰(何)かについて探った。二ではーブルームの内面的な動きを追い、セイレーンの本当の姿について検討を加えた。三では、「丸刈り組」という曲とフルームの関係から、別な種類のセイレーンの正体を突きとめ、この挿話のもう一つの主題について考えた。
著者
斎藤 信平
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.128-115, 1995-12-10

本論でほ<焦点化>理論の大まかな変遷、物語論者による<焦点化>理論の違いを考察した。トドロフ、ジュネット、パル、リモソ-ケナン、チャットマン、オニールなどを扱い、各々の体系における<焦点化>と<語り手>の問題を取り上げた。一つの尺度としてヘミングウェイの「殺し屋」を取り上げ、各々の理論に当てはめて分析することにより各々の<焦点化>理論における相違点を洗い出すことと、「殺し屋」そのものの<物語言説>についての考察をした。
著者
山田 吉郎
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.31-40, 1997-12-10

歌人前田夕暮の遺詠「わが死顔」(昭和二十六年)は、自らの死顔を春の木の花のイメージとともに幻視した異色の作であるが、中井英夫は『黒衣の短歌史』で、この「無気味に美しい一連」を「短歌への信頼を一挙に回復した」作品として高く評価した。この評価をどう見るかはひとまず措くとして、この中井の発言の背景には遺詠「わが死顔」のもつ短歌作品としての特異性がつよく暗示されている。アララギを中心とする写実短歌の流れが主流をなしつつも、一方で前衛短歌運動の足音が近づく当時の短歌界の潮流の中で、「わが死顔」はどのような史的意義を担っていたのだろうか。本稿は、そうした「わが死顔」の文学的特質と可能性を、その独特の幻視や二重自我の問題を手がかりに考察したものである。