著者
金山 弘昌
出版者
学校法人 開智学園 開智国際大学
雑誌
日本橋学館大学紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.39-52, 2003

16世紀後半のヨーロッパ諸宮廷において,ある新しい流行が広まった。馬車の使用である。同世紀末までに馬車は貴族階級の主要な移動手段となり,さらには宮廷儀礼において重要な役割を果たすようになった。馬車の急速な普及は建築や都市計画にも影響を与えた。それまでは騎馬のみを前提としていたパラッツォ(都市型邸館)において,馬車庫や馬車の動線の確保が必要となったのである。この点について,本論考では,17世紀イタリアのパラッツォの建築計画における馬車の使用の影響を,フィレンツェのピッティ宮の事例の検討を通して考察する。トスカーナ大公の宮殿である同宮は,当初ルネサンスのパラッツォとして建設された後,16世紀後半,いまだ馬車が決定的に普及する以前に増築改修された。それ故,翌17世紀においては,馬車のための諸設備の増築の必要が明白かつ緊急の課題となった。まず1610年までにボーボリ庭園に至る馬車の「通路」が設けられた。さらに同宿改修のための多くの未実施の計画案の中にも,馬車関連の施設の提案が見出される。 1641年には,大公の建築家アルフォンソ・パリージが,大公の弟ジョヴァンニ・カルロ公の意見に基づき,ロッジア(開廊)形式の馬車庫を新設の側翼に設けることを提案した。また宮廷のグァルダローバ職で技師のディアンチント・マリア・マルミが1660年代と70年代に提案した各種計画の中にも,馬車庫や多数の馬車の使用に適した広場の整備,中庭からボーボリ庭園に至る新しい馬車道などが見出される。さらに大公の「首席侍従」のパオロ・ファルコニエーりも,1681年にピッティ宮の全面改修を提案した際,馬車関連施設の不備を同宮のもっとも重大な欠点の一つと考えた。ファルコニエーりは特に馬車の動線システムの再構築に配慮し,デコールム(適正さ)の原理を遵守しつつ,大公やその一族の馬車動線を「雑役」用のそれと明確に区別した。このように,たとえ大半の提案が構想段階に留まったとはいえ,17世紀の大公の宮廷の建築家や廷臣たちが,馬車の問題に対して常に関心を払っていたことは明らかなのである。

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