著者
金山 弘昌
出版者
学校法人 開智学園 開智国際大学
雑誌
日本橋学館大学紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.39-52, 2003-03-30 (Released:2018-02-07)

16世紀後半のヨーロッパ諸宮廷において,ある新しい流行が広まった。馬車の使用である。同世紀末までに馬車は貴族階級の主要な移動手段となり,さらには宮廷儀礼において重要な役割を果たすようになった。馬車の急速な普及は建築や都市計画にも影響を与えた。それまでは騎馬のみを前提としていたパラッツォ(都市型邸館)において,馬車庫や馬車の動線の確保が必要となったのである。この点について,本論考では,17世紀イタリアのパラッツォの建築計画における馬車の使用の影響を,フィレンツェのピッティ宮の事例の検討を通して考察する。トスカーナ大公の宮殿である同宮は,当初ルネサンスのパラッツォとして建設された後,16世紀後半,いまだ馬車が決定的に普及する以前に増築改修された。それ故,翌17世紀においては,馬車のための諸設備の増築の必要が明白かつ緊急の課題となった。まず1610年までにボーボリ庭園に至る馬車の「通路」が設けられた。さらに同宿改修のための多くの未実施の計画案の中にも,馬車関連の施設の提案が見出される。 1641年には,大公の建築家アルフォンソ・パリージが,大公の弟ジョヴァンニ・カルロ公の意見に基づき,ロッジア(開廊)形式の馬車庫を新設の側翼に設けることを提案した。また宮廷のグァルダローバ職で技師のディアンチント・マリア・マルミが1660年代と70年代に提案した各種計画の中にも,馬車庫や多数の馬車の使用に適した広場の整備,中庭からボーボリ庭園に至る新しい馬車道などが見出される。さらに大公の「首席侍従」のパオロ・ファルコニエーりも,1681年にピッティ宮の全面改修を提案した際,馬車関連施設の不備を同宮のもっとも重大な欠点の一つと考えた。ファルコニエーりは特に馬車の動線システムの再構築に配慮し,デコールム(適正さ)の原理を遵守しつつ,大公やその一族の馬車動線を「雑役」用のそれと明確に区別した。このように,たとえ大半の提案が構想段階に留まったとはいえ,17世紀の大公の宮廷の建築家や廷臣たちが,馬車の問題に対して常に関心を払っていたことは明らかなのである。
著者
金山 弘昌
出版者
日本橋学館大学
雑誌
紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.53-73, 2004-03-30

1664年,G.L.ベルニーニは,ルイ14世の冬の宮殿,パリのルーヴル宮東翼建設のための最初の計画案を提案した。同案はいくつか特殊な面を示すが,それらは「比類するものふたつとなし」をモットーとする「太陽王」のために前例のない王宮を設計せんとする,ベルニーニの意図を反映したものに他ならない。同案のもっとも特異な要素のひとつが,中央部のいわゆる「ドームなしドラム」である。論者は,このモティーフの着想源と象徴的意味内容について新たな仮説を提示したい。「ドームなしドラム」については,すでに幾つかの仮説が提示されている。その着想源について,同モティーフの名付け親でもあるR.W.バージャーは,フランスの建築家にして版画家,アントワーヌ・ル・ポートルによる架空の館を描いた版画の影響を示唆している。当時のフランスの「建築総監」であったJ.B.コルベールは,このモティーフを「王冠」と解釈した。一方今日の幾人かの研究者たちは,集中式平面の聖堂との関連を主張し,このモティーフが君主の絶対で聖なる権力の象徴であるとみなしている。この点につき論者は新たな着想源として,スペイン王の皇子誕生を祝ってフィレンツェで上演された祝祭劇『イペルメストラ』(1658)のためにフェルディナンド・タッカが設計した舞台装置を描いたシルヴィオ・デリ・アッリの版画を提案したい。この舞台装置には「ドームなしドラム」状の円形建築が含まれ,それが「太陽の宮殿]を表すとされているのである。この円形建築は,形式においてルーヴル第1計画案と強い類似性を示すのみならず,その意味内容においてもまた「太陽王」の宮殿に大変ふさわしい。さらに「ドームなしドラム」をもち,「太陽の宮殿」を表現した一連の建築図面やイメージが存在する。例えばアポロンとしてのルイ14世を描いたヨーゼフ・ヴェルナーの素描や,マッティア・デ・ロッシによる同国王の記念碑の計画案などである。「太陽王」の宮廷周辺において,「太陽の宮殿」を「ドームなしドラム」で表現するというひとつの図像伝統が存在したことは否定しがたいのである。当然ながら,なぜ「ドームなしドラム」と「太陽」が結びついたのかという疑問が生ずる。バージャーが有名なクロード・ペローによるルーヴル宮の列柱廊の典拠とみなすオウィディウスの『変身物語』には,「ドームなしドラム」についての言及はない。同様に古代建築の復元図にも先例は見当たらない。現段階では,この結びつきがいくつかの建築書の記述に基づくと論者は考える。事実ウィトルウィウスは,「雷神ユピテルや天空神,太陽神や月神のためには,白日の下に露天式の殿堂が建てられる」と記している。一方アルベルティとパッラーディオは,太陽神の神殿が円形平面でなければならないと述べる。これらの建築的規則を総合するならば,太陽に捧げられた円形平面の露天式神殿を想像することは容易いのである。
著者
金山 弘昌
出版者
学校法人 開智学園 開智国際大学
雑誌
日本橋学館大学紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.29-51, 2005

上演芸術史において,フィレンツェのメディチ家宮廷がもつ重要性については議論の余地がないであろう。まさにこの宮廷において,ヤーコポ・ペーリによる史上初の音楽劇(オペラ)が上演され,ブオンタレンティ設計の有名なメディチ劇場が開設されたのである。大公国の政治経済的衰退が明らかな17世紀においてさえも,この宮廷で催される祝祭と上演物は西欧の他の諸宮廷にとっての模範であり続けた。本論文では,17世紀前半,より厳密には,いずれも婚礼祝祭の催された1608年と1661年の間の時期において,メディチ家宮廷で用いられた劇場システムについて考察したい。同宮廷では,とりわけさまざまな上演物が催される祝祭においては,上演物自体の類型を考慮しつつ,さまざまな類型の劇場と劇場的場が用いられた。メディチ家が催した祝祭,とりわけ婚礼祝祭の検証を通じて,同宮廷では劇場と劇場的場が概ね二つの類型に分類されていたと推定できる。一つはトルネオ(騎士試合)用の野外劇場であり,もうひとつは演劇と音楽劇の上演のための室内劇場,近代的な意味での文字通りの劇場である。野外劇場に関しては,たとえその形式が変化したとはいえ,中世に起源をもつ「囲われた広場」の伝統が,とりわけその機能において存続していた。しかし演劇と音楽劇のための室内劇場については,宮廷は恒常的に機能する劇場を生みだすことに失敗し,各種の劇場的場の応急的な使用に依存し続けたということを銘記せねばならない。この傾向はとりわけ1630年代のメディチ劇場の解体以後に顕著である。ピッティ宮中庭の使用などさまざまな提案がなされたものの,有効な方策とはいえなかった。それ故に,1661年の婚礼祝祭においては,アッカデミア・デリ・インモービリのペルゴラ劇場が音楽劇の上演に充てられたのである。かくして上演の場の問題は,貴族たちが所有するほとんど私的かつ市民的な劇場を用いて宮廷外で上演物を催すというかたちで解決されたのである。
著者
金山 弘昌
出版者
学校法人 開智学園 開智国際大学
雑誌
日本橋学館大学紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.29-49, 2007-03-01 (Released:2018-02-07)
被引用文献数
1

ジョヴァンニ・ルチェッラーイは有名な『雑記帳』の中で、「人の一生で一番重要なことはふたつある。第一は子を産むこと。そして第二は家を建てること」と記している。この言葉はルネサンスの有力者たちが自分たちの邸館に期待していた社会的な重要性について明らかにしている。本稿では、このテーマ、すなわちルネサンス期フィレンツェの パラッツォが持つ社会的機能と意義について概観を試みる。この目的のため、ゴールドスウェイト、F・W・ケント、プレイヤーらの主要な研究に沿いつつ、とりわけこのような活発な建設事業を許した、あるいは推進した倫理的基盤について、そして中世のコンソルテリーア解体後にルネサンス社会が被った、社会や家族の絆の劇的な変動の影響について検討する。社会的変動の影響については、とりわけゴールドスウェイトの仮説に関わる論争についての検証を試みる。すなわち、巨大な規模と豊かな装飾をもつルネサンスのパラッツォは、本当に「施主とその核家族のためのプライヴェートな隠れ家」なのか、それともケントが考えるように、「隣人、友人、親戚」、つまりクリエンテーラの政治的・社会的中核なのか、という論議である。パラッツォの建築的特徴と同時代の史料の検討から、ケント説の妥当性を認めることができる。さらに、パラッツォの大きさや芸術的性格は、中世のコンソルテリーアの基盤となっていた血縁と共住による物理的な絆の代替となって、個人間の関係として成立した新たな社会的ネットワークを表象する、象徴的な価値となっていたと考えられるのである。
著者
金山 弘昌
出版者
日本橋学館大学
雑誌
日本橋学研究 (ISSN:18829147)
巻号頁・発行日
vol.2, no.1, pp.31-46, 2009-03-31

日本橋は江戸時代の創架以来、日本橋地区を代表するランドマークであった。現存する明治44年(1911)竣工の日本橋もまた、東京の都市史や近代日本の土木工学史、そして建築史や美術史において注目に値する。本稿は、土木技師や彫刻家との特異な協力関係の下で進められたこの橋梁の実現について、建築家妻木頼黄(1859-1916)が果たした役割を再考察することを目的としている。日本橋以前の近代橋梁は、いずれも土木技師たちの設計になるものであった。その状況下、日本橋は、土木技師と建築家の協同の下で実現された橋梁の最初の例として認識されていた。同様の協同が他の橋梁に遡るとする反論もあるが、妻木の参画の理由やその役割の再検証により、やはり日本橋が同様の試みの初の例であることが再確認できる。一方、あまり注目されず充分に検討されてこなかったのが、妻木と渡邊長男ら彫刻家の協同である。当時の建築界の言説のなかには、彫刻と建築の関係の疎遠さや未熟への批判を見出すことができ、とりわけ建築家に積極的な関与を求める所説が見られる。日本橋の有名な獅子や麒麟といった装飾彫刻の制作に際して、装飾プログラムから、彫像やレリーフのモティーフや様式の選定、彫像の配置にいたるまで、妻木の彫刻家たちへの関与は非常に積極的でかつ詳細に及んでいる。つまり妻木は、おそらく同時代的意識に基づいて彫刻家たちとの協同も一層推し進めたのである。
著者
金山 弘昌
出版者
慶應義塾大学
雑誌
哲學 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.45-69, 1995-01

I. はじめにII. ルーブル建築史におけるベルニーニと諸計画案III. ルーブル第一計画案の研究史と問題点IV. ベルニーニにおけるデコールムの概念V. 第一計画案の諸特徴とデコールムVI. 第一計画案とパラッツォ・バルベリーニVII. 第一計画案におけるベルニーニの矛盾Bernini's first project for the Louvre of Louis XIV (1664) is one of the most extraordinary palace designs in the history of Roman Baroque architecture. The unusual features in the tradition of Roman palaces include: the convex-concave curve, 'the dome without a drum,' the arcade, and the U shaped plan. Many scholars have already clarified the] visual sources and iconographic programs of these features, however the problem of why Bernini abondoned the traditional Roman palace facade and adopted these unusual features has yet to be sufficiently explained. In this paper, I have addressed this problem, focusing on Bernini's concept of decorum (decor), a classical theory concerned with form and content. I hypothesize that the unusual facade design of the first project is a result of Bernini's theory that decorum is indispensable for the expression of the grandeur of the Sun King. In the first project the east facade design is characterized by an arcade and a U shaped plan which is more similar to a villa facade or a palace court yard than to a typical palace facade. According to the theory of decorum and Roman architectural tradition, villa facade or court yard decoration was applied more freely than the principal fagade of a palace. For Bernini, who wished to give the Louvre symbolic and theatrical features which had never exsisted before, the traditional decorum for a palace fagade was insufficient, therefore he adopted another decorum program.
著者
金山 弘昌
出版者
学校法人 開智学園 開智国際大学
雑誌
日本橋学館大学紀要 (ISSN:13480154)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.39-52, 2003

16世紀後半のヨーロッパ諸宮廷において,ある新しい流行が広まった。馬車の使用である。同世紀末までに馬車は貴族階級の主要な移動手段となり,さらには宮廷儀礼において重要な役割を果たすようになった。馬車の急速な普及は建築や都市計画にも影響を与えた。それまでは騎馬のみを前提としていたパラッツォ(都市型邸館)において,馬車庫や馬車の動線の確保が必要となったのである。この点について,本論考では,17世紀イタリアのパラッツォの建築計画における馬車の使用の影響を,フィレンツェのピッティ宮の事例の検討を通して考察する。トスカーナ大公の宮殿である同宮は,当初ルネサンスのパラッツォとして建設された後,16世紀後半,いまだ馬車が決定的に普及する以前に増築改修された。それ故,翌17世紀においては,馬車のための諸設備の増築の必要が明白かつ緊急の課題となった。まず1610年までにボーボリ庭園に至る馬車の「通路」が設けられた。さらに同宿改修のための多くの未実施の計画案の中にも,馬車関連の施設の提案が見出される。 1641年には,大公の建築家アルフォンソ・パリージが,大公の弟ジョヴァンニ・カルロ公の意見に基づき,ロッジア(開廊)形式の馬車庫を新設の側翼に設けることを提案した。また宮廷のグァルダローバ職で技師のディアンチント・マリア・マルミが1660年代と70年代に提案した各種計画の中にも,馬車庫や多数の馬車の使用に適した広場の整備,中庭からボーボリ庭園に至る新しい馬車道などが見出される。さらに大公の「首席侍従」のパオロ・ファルコニエーりも,1681年にピッティ宮の全面改修を提案した際,馬車関連施設の不備を同宮のもっとも重大な欠点の一つと考えた。ファルコニエーりは特に馬車の動線システムの再構築に配慮し,デコールム(適正さ)の原理を遵守しつつ,大公やその一族の馬車動線を「雑役」用のそれと明確に区別した。このように,たとえ大半の提案が構想段階に留まったとはいえ,17世紀の大公の宮廷の建築家や廷臣たちが,馬車の問題に対して常に関心を払っていたことは明らかなのである。
著者
幸福 輝 佐藤 直樹 渡辺 晋輔 栗田 秀法 金山 弘昌
出版者
独立行政法人国立美術館国立西洋美術館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2003

本研究は、16世紀から17世紀にかけ、版画という媒体において古代がどのように表象され、また、この媒体を通じて古代文化はどのように伝播されていったかという問題を、西欧各国の具体的な事例に基づいて、明らかにしようとする目的でおこなわれた。もとより、きわめて大きな問題であり、われわれの目的はその基礎的な概略図を描くことでしかないが、それぞれ異なる分野を専門とする者が協力しあったことにより、当初の目的は達成できたのではないかと考えている。はじめに、イタリア、ドイツ、ネーデルラント、フランスの順で、ごく簡単にこの主題について各国の状況を略述し、次いで、各研究分担者による研究成果を掲載する。佐藤はデューラーとイタリア版画の関係について、幸福はヒエロニムス・コックの版画出版活動について、金山は古代建築の復元図とバロック建築との関係について、渡辺はズッカレリの風景画に見られる古代彫刻のモティーフについての議論をおこない、栗田はフランス・アカデミーにおけるラオコーンに関する講演の翻訳とその解題を寄せている。なお、国立西洋1美術館に属す研究代表者の幸福と研究分担者の佐藤および渡辺は、2005年と2007年に本研究に関連するふたつの版画の展覧会(『「キアロスクーロ:ルネサンスとバロックの多色木版画』と『イタリア・ルネサンスの版画』)を同館で企画・開催した。別冊資料1、同2として、それら2冊の展覧会図録を本研究成果報告書に添付して提出する。