- 著者
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高橋 博
- 出版者
- 学習院大学
- 雑誌
- 人文 (ISSN:18817920)
- 巻号頁・発行日
- vol.3, pp.115-130, 2004
近世の朝廷内部の機構・制度の研究は、1980年代以降多くの進展が見られ、近年は地下官人の研究や史料の翻刻作業が活発である。だが、近世の女官の制度(上な位いよしりの尚か侍み・典侍・掌侍・命婦・女蔵人・御差・御末・女嬬・御服所等と称した)はまだ考察の余地が多く、河鰭実英著『宮中女官生活史』(風間書房、1963年)公刊以降、新たな進展が見みなかまられたと言えない。したがって本稿では三仲間(御末・女嬬・御服所の総称)を取り上げ、その近世後期における基礎的事実や人事・職務内容などにっいて検討したい。第1章では三仲間の定員・序列・年齢や採用などについて、歴代天皇の代替わりにおける動向も含めて検討する。三仲間の採用には、親類書・里請状・寺請状が必要であり、これらは親類書の審査とともに執次(各御所に設置の宮廷会計を掌る口向諸役人の最上席。江戸幕府任命の禁裏附武家の監督下にあった)の管理下にあった。三仲間の採用で親類書の審査が免除される理由として、実家が殿上人の家柄であることがその一つに考えられるが、なお検討を要する。三仲間の人事は天皇の崩御と譲位とでは大きく異なり、1779年(安永8)後桃園天皇崩御の例では三仲間頭と称する御末・女嬬・御服所の上首(阿茶・茶阿・右京大夫)を始め多数が薙髪して暇をとるが、1817年(文化14)光格天皇譲位の例では殆どが仙洞に移ることから、仕えた天皇との人的関係の強い人事であった。 第2章では三仲間の職務内容について検討する。安永年間(1770年代)には三仲間頭のうち、右京大夫が大御乳人の代役として、仙洞と幕府との連絡を行っている例がある。また、中宮御所の三仲間の事例であるが、光格天皇の譲位決定の御祝などの場合に、三仲間頭は中宮の女官からの使者として諸方に派遣されていた。中宮居住の皇子の移転の際の供と見送りのために、御所や中宮から三仲間の一人が派遣されることもあった。だが、中宮や御所および東宮は三仲間の上位の女官を「女中衆」と呼び、三仲間の職責の軽さが故であろう理由に拠り、三仲間と上位の女官とを、女官全体の序列間の中でも類をみないほど明確に区分していた。典侍・勾当内侍・伊予(命婦の上首)三頭と呼ばれ天皇代替わりでも御所に残ったのに対して、光格天皇譲位にて三仲間のうち女嬬と御服所が残されることはなかったのは、その職責の軽さを示すものかもしれない。"0-sue","Nyo-jyu"and"Go-fuku-dokoro", low-ranking posts of innner palace were collectively called"Mi-nakama"in the latc pre-modern age. The reason why we need to study"Mi-nakama"is a stagnation of studies comparing with those on the other posts. Accordingly,this article describes the personnel affairs of"Mi-nakama", the contents of those women's job, and so on.The.adoption of''Mi-nakama"was c・ntrolled by"T()ritsugi"・ apPointed by Tokugawa shogunate, with the judge of their''Shinrui-gaki(the paper oftheir family)". In the case of the succession to thc throne, the most working women of"Minakama" remained in thc Court togcther with the second one. But in the case of the emperor's death, most of them had their hcads shaved. One of"Mi一 nakama-kashira", the top rank in the"Mi-nakama"job was the messenger in the case of happy event in the Court, and the attendant with the prince.ln this way, "Mi-nakama"was related to the emperor intimately, but the responsibility was not always heaVy.