- 著者
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出口 顯
- 出版者
- 日本文化人類学会
- 雑誌
- 民族學研究 (ISSN:00215023)
- 巻号頁・発行日
- vol.66, no.4, pp.439-459, 2002-03-30
臓器移植は生命の贈り物といわれるが、いかなる意味で「贈り物」なのかを考えたい。少なくともそれはモースが考察の対象とした「アルカイック」な贈与とは異なることがアメリカでの臓器移植を積年研究してきたフォックスとスウェイジー批判で示される。さらにこの問題を考えるとき、人類学で培われた贈与理論がどの程度有効なのかを、ワイナーとゴドリエからマリリン・ストラザーンへと、比較的新しい理論からそれ以前の理論へいわば脱構築しながら検討する。ゴドリエの理論は「贈与」されるのが生命それ自体であり、臓器はその表象であることを明らかにするのに有効であるが、西洋近代の人格概念を前提にしているため、ドナーと自らの二つの人格あるいは生命が併存する共同体として自己を受けとめるレシピアントの体験を据えきれない欠点がある。むしろ、ストラザーンのメラネシアの人格観のモデルが、そうした体験をうまく説明できるものとなっている。しかしストラザーンのモデルでは、柄谷行人の言う「他者」が不在であり、また柄谷にしてもストラザーンにしても「自己」が「他者」化する可能性は全く考慮されていない。自己自身にとって他者となる自己という主題を考察してきたのは、さらに時間を遡るが、レヴィ=ストロースである。自己の内部に出現する他者や侵入者というその視点から、臓器移植は概して外部からの侵入者の物語であることがわかるが、それを内部の侵入者としてとらえる余地はないか最後に検討を試みてみる。