著者
清水 芳見
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.166-185, 1989-09-30 (Released:2018-03-27)

本稿では, ヨルダンの北部のクフル・ユーバーという村の邪視信仰について, 記述, 考察する。この村では, 邪視は妬みと不可分に結びついており, 妬みが生じるような状況下では, どんな人間でも邪視を放つ可能性があるとされている。邪視除けの方法として, この村でもっともよく行なわれるのは, 邪視にやられると思われたときに特定の文句を唱えることであり, 邪視にやられて病気になったときの治療法としては, sha' ir al-mawlidと呼ばれる植物などを焚きながら特別な祈念をしたり, クルアーンの章句を唱えたりすることがよく行なわれる。この村では, 邪視を放った者を公に告発するようなことは行なわれないが, この告発ということに関連して, 邪視を放ったという疑いをかけられないようにするための方策がよく巡らされる。最後に, この村では, 邪視がつねにイスラームというコンテクストのなかで理解されているということが, 本稿全体を通して明らかになった。
著者
波平 恵美子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.42, no.4, pp.334-355, 1978-03-31

This article discusses symbolic meanings of the belief in which a drowned body becomes deified as Ebisu-gami. Japanese fishermen usually are under a prohibition or a taboo that they should not take pollution caused by death into the sea, because they belive the sea is a sacred place and pollution, especially concerning death, might cause dangers to them. Nevertheless, they pick up a drowned body whenever they find it on the sea and deify it as Ebisugami, a luck-bringing deity. In Japanese folk belief Ebisu-gami is worshipped as a luck-bringing deity by fishermen, farmers or merchant and is also a guardian deity of roads and voyages. A remarkable attribute of Ebisu is its deformity. The deity is believed to be one-eyed, deaf, lame or hermaphrodical. It is also believed to be very ugly. People sometimes say that it is too ugly to attend an annual meeting of all gods which is held in Izumo, Simane Prefecture. In Japanese symbolic system deformity and ugliness are classified Into Kegare (pollution) category as I have represented in my articles (NAMIHIRA, E. : 1974 ; 1976). Some manners in Ebisu rituals tell that Ebisu is a polluted or polluting deity, e. g., an offering to the deity is set in the manner like that of a funeral ceremony, and after a ritual the offering should not be eaten by promising young men. Cross-culturally deformity, ugliness or pollution is an indication of symbolic liminality'. In this sense. Ebisu has characteristics of liminality at several levels (1) between two kinds of spaces : A drowned body has been floating on the sea and will be brought to the land and then be deified there. In Japanese culture, the land is recognized 'this world' and the sea is 'the other world'. A drowned body comes to 'this world' from 'the other world'. (2) between one social group and another social group ; In the belief of Japanese fishermen only the drowned persons who had not belonged to their own social group, i. e., only dead strangers could be deified as Ebisu. The drowned person had belonged to one group but now belongs to another group and is worshipped by the members ; (3) between life and death : Japanese people do not perform a funeral ceremony unless they find a dead body. Therefore, a person who drowned and is floating on the sea is not dead in the full sense. That is, the person is between life and death. The liminality of Ebisu-gami is liable to relate to other deities whose attributes are also 'liminal'. Yama-no-kami (mountain deity) or Ta-no-kami (deity of rice fields) and Doso-shin(guardian deity of road) are sometimes regarded in connection with Ebisu. Japanese folk religion is a polytheistic and complex one. Then, it is significant to study such Ebisu-gami that are interrelational among gods and have high variety in different contexts in the Japanese belief system.
著者
杉本 直治郎 御手洗 勝
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.15, no.3-4, pp.304-327, 1951-03-15 (Released:2018-03-27)

Over 2, 000 years ago the Fu-sang legend appeared in Chinese literature in the form of a treelegend, also having some connection with the sun. The authors, tracing the legend back to its original form, make it clear that its original form must have been a pure sun-legend. The Jo-mu (若木) which was identified with the Fu-sang means a sun-tree, the sound of 若 (^*njiak) being that of 日 (^*njiet), "sun", and both Jo-mu and Fu-sang are associated with the legend of "Ten Suns." As the character of "sang" (桑)="mulberry" in Fu-sang resembles that of "jo" (若=〓) in Jo-mu, there has been a misreading since the Chou period. But 扶桑=扶〓=扶若=扶日 seems to have been the proper series, and the last of the series 扶日 (Fu-jih) is identical with the Fu-jih (拂日 "striking the sun") which is seen in old Chinese documents combined with the Jo-mu (若木). Furthermore, as we have the legend of the Pi-jih (〓日 "shooting the sun") in which the archer I (〓) shot nine suns down out of the ten, the Pih-jih ("shooting the sun") must have been the original meaning of the word Fu-sang (扶桑) which can be identified with the Fu-jih (拂日 "striking the sun"). We find examples of such a rite of invigoration as "helping the sun" in the eclipse or shooting for the same purpose wang shih (枉矢)=huang shih (黄矢), fire-arrow, at the sun not only in the old Chinese documents, but also in modern ethnological literature. The Shantung peninsula was the principal field of activities of I, the hero of the legend of "Ten Suns." The legend itself seems to have derived from the institution of "Ten Days" which was prevalent among the Tung-i (東夷) in Shantung. The authors assume that the Fu-sang legend was first formed among this people and then transmitted southward by the migration of the Ch'u (楚) tribe belonging to the Tung-i. According to Chinese legends, there is the Hsiliu (細柳 "slender willow") in the west where the sun sets, in contrast to the Fu-sang in the east where the sun rises. The epithet hsi ("slender") being added only from the association with the meaning "willow" which the character liu has, the real meaning of the Hsi-liu must lie in the sound liu. While the place where the sun rises in the east is called T'ang-ku (湯谷), the place where the sun sets in the west is called Liu-ku (柳谷). Liu-ku is called also Mei-ku (昧谷), Meng-ku (蒙谷), Meng-ssu (蒙〓), etc. As the liu here is demonstrated to be mei (昧)=meng (蒙)=an (暗)=yin (陰), meaning "dark, " the Liu-ku must be Mei-ku=Meng-ku=Meng-ssu=An-ssu (暗〓)=Yin-ssu (陰〓), "the valley wherein the sun sets, " opposite to the T'ang-ku (湯谷)=Yang-ku (陽谷), "the valley from where the sun rises." Therefore, the proper meaning of such a name as Yen-tsu (〓〓) where the sun sets, which has been a riddle to sinologists, is Yin-ssu (陰〓), the valley wherein the sun sets. The Hsien-ch'ih (咸池) and Kan-yuan (甘淵), in which the sun is said to bathe, are also respectively nothing else than the An-ch'ih (暗池)=Yin-ch'ih (陰池), "the pond in which the sun sets, " and An-yuan (暗淵), "the deep in which the sun sets."
著者
橋本 裕之
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.4, pp.537-562, 1998-03
被引用文献数
2

近年, 人文科学および社会科学の諸領域において文化の政治性や歴史性に対する関心が急速に高まった結果として, 博物館についても展示を巨大な言説の空間に見立てた上でテクストとしての展示, もしくは表象としての展示に埋めこまれたイデオロギー的な意味を解読した成果が数多く見られる。だが, 展示をとりあげることによって表象の政治学を展開する試みは, 理論的にも実践的にも限界を内在しているように思われる。そこで決定的に欠落している要素は, 来館者が構築する意味に対する視座であろう。展示がどう読めるものであったとしても, 来館者が展示された物をどう解釈しているのかという問題は, 必ずしも十分に検討されていないといわざるを得ないのである。本稿は以上の視座に依拠しながら, 博物館において現実に生起している出来事, つまり来館者のパフォーマンスを視野に収めることによって, 博物館における物を介したコミュニケーションの構造について検討するものであり, 同時に展示のエスノグラフィーのための諸前提を提出しておきたい。実際は欧米で急成長しているミュージアム・スタディーズの成果を批判的に継承しつつも, 私が国立歴史民俗博物館に勤務している間に知ることができた内外の若干のデータを演劇のメタファーによって理解するという方法を採用する。じじつ博物館は演劇における屈折したコミュニケーションにきわめて近似した構造を持っており, そもそも物を介したインターラクティヴ・ミスコミュニケーションに根ざした物質文化の劇場として存在しているということができる。こうした事態を理解することは民族学・文化人類学における博物館の場所を再考するためにも有益であると思われる。
著者
森 雅雄
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.66-85, 1997-06-30
被引用文献数
1

本稿は, 近代において日本人がどのように「他者」を認識したのか, そして日本の民族学がその歴史の中にどのように位置づけられるのかを検討しようとするものである。幕末と明治期における日本人, 特に武士や士族は東アジアにおける共通語である漢文によって「他者」と意志疎通することができた。1850年代のペリー来航の時も, 日本は鎖国政策を採っていたけれども, 通常考えられている以上に効果的に彼らと交渉することができた。これは彼らの漢文能力によるものと考えられる。日本の武士は漢文を通じて「他者」を知ることができたのである。明治時代初期においても, 日本人はなお漢文による論理の儒学の教えが身についていた。このことは日本人が国際法のような西洋の規範を採用する基盤となったと思われる。日本における人類学の創設者坪井正五郎は武士の子弟であり, 西洋の人類学を取り入れ, 日本人を外来種と見ることに躊躇しなかった。大正時代は「他者」の認識が希薄になる時代である。日本人から武士の精神が失われるとともに「自己」に対峙する「他者」の認識は失われていった。それ故, 台湾や朝鮮のような日本の植民地は, 主権国家によって支配される地域ではなく, 日本の同質の一部として見られる様になるのである。これ以降, 日本はこれに対峙する「他者」のないままに拡大してゆくことになる。人類学者も日本人を古来より存在している単一民族として見るようになる。民俗学者柳田国男も日本民俗学を外国を必要としない一国民俗学として成立させる。日本民族学はこの日本民俗学から生まれた。しかも日本民俗学が持っていた方法や観点の一貫性さえ失ってしまったのである。即ち何かを一貫したものとして見るために要請される「他者」というものを。そしてそれは第2次大戦後の民族学者の変わり身の早さや石田英一郎の色々な方法に対して示した抱擁力に見ることができるのである。
著者
星野 晋
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.460-481, 2002-03-30
被引用文献数
1

本研究は、エホバの証人の輸血拒否を、新しい医療技術の開発によって医療現場で生じた文化摩擦であると位置づけ、この問題をめぐる日本の医療環境の変化の過程を見ていくことにより、医療と技術と文化の関係を検討することを目的とする。エホバの証人(法人名、ものみの塔聖書冊子協会)は、19世紀末にアメリカで誕生したキリスト教系の宗教団体であり、血を食べてはならないという聖書の記述を根拠に医療現場で輸血を拒否することが、さまざまな国で社会問題になった。日本では、1985年交通事故に遭った小学生の輸血を両親が拒否し死に至ったことがマスコミで報道され、エホバの証人、信者である両親、輸血を強行しなかった医師等が非難の的となった。1990年前後から、輸血拒否問題をめぐる状況は大きく変わり始める。患者の自己決定権、インフォームド・コンセントといった概念が社会的に認知されるようになってきたが、これらの考え方はエホバの証人の輸血を拒否し「無輸血治療」を選択するという主張と合致するものであった。一方、薬害エイズ問題等で輸血や血液製剤の危険性が改めて注目されるところとなり、その回避にもつながる新しい薬剤や技術が開発されはじめる。その結果、輸血は人の生死を分ける唯一の選択肢ではなくなった。また協会はそのころ、新しい技術や無輸血治療に理解を示す医師等についての情報を信者に提供するなどして信者と医療の架け橋の役割を果たす、医療機関連絡委員会等の部門を設置する。結局、医療側とエホバの証人は、それぞれがいだく信念の直接衝突を避け、インフォームド・コンセントの枠組みを最大限に利用し、その場面でなされる利用可能な技術の選択という一般的なテーマに輸血拒否の問題を解消させる。その結果この文化摩擦は解決する方向に向かっているといえる。
著者
阿部 年晴
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.342-359, 1997-12-30

文化人類学で用いられる呪術概念は, 近代ヨーロッパの形成過程において, 宗教(キリスト教)や科学や近代的な社会制度から排除され否定的な価値を付与された残余カテゴリーであった。この残余カテゴリーの指し示すところにしたがって始められた呪術研究においては, 連想の原理の誤用, 心理的言語技術, 融即, 象徴的表現, 物語生成装置, 構成規則にしたがう技術, ゼロ記号などさまざまなとらえ方が提出された。その過程で, 非合理的でマイナーな慣習と見なされていたものの研究が, 文化的存在としての人間生を根底で支えているものでありながら近代的な諸科学が気づかなかった行為の諸側面や, 文化的秩序の基本的な再生産装置に光を当てるという逆説的な事態が生じている。しかもそのような行為の諸側面や文化装置の弱体化は, 現代文明が草の根において遭遇しつつある危機とかかわりをもっていると思われる。このような観点から呪術研究をさらに展開するために必要なことの一つは, 日常的文脈における呪術世界の研究を基盤として, レヴィ=ストロースのマナ論にみられるような理論的考察と民族誌学的な記述分析と内在的記述とを結び付ける作業である。
著者
松園 典子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.47, no.3, pp.297-304, 1982-12-30
被引用文献数
1
著者
小林 高四郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.20, no.1-2, pp.36-46, 1956-08-10 (Released:2018-03-27)

As formerly Prof. Egami published an article titled "On the beverages and foods of the Hsiungnu (匈奴), Mr. Hotta recently dealt with the same problem in detail also (vide "The Shigaku", Vol.27, No.4, a journal of the Keio University). But owing to the anbiguousness of the Mongolian language and the inaccuracy of the Chinese documents, we are not yet able to understand exactly the substances and their Mongolian names. So some questions remain uncertain still. Accordingly the present author aimed to explain the real meanings of such Mongolian words as "airan", airaq, araxi, esug, cigen, kumys etc., and the identity with the Chinese characters denoting the above mentioned beverages, 酪 lo, 馬酪 ma-lo, 賣 su, 阿児赤 arci, 哈刺赤 haraci, 馬〓子 ma-nai-tzu, 醍醐 ti-hu etc., principally from the philological points of view. The results led us to the correction of the opinions of Mr. Hotta, late Prof. Ramstedt, and Prof. Karlgren. Moreover the author explained the Mongolian words, 'sarχud', 'bisilarγ' and 'bor'.
著者
三尾 稔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.58, no.4, pp.334-355, 1994-03-30

南アジア各地で祝われるドゥルガー女神の例大祭は,ヒンドゥ王権の儀礼的な側面はほとんど見いだされない。隣接地域の過去の民族誌の検討により,事例間の差異の理由は文化的多様性ではなく歴史的変化に求められることが明らかとなる。インド独立以後の急速な社会変容は,超歴史的とされてきたヒンドゥ的王権を基盤とする村落社会構造を根底から揺るがし祭礼の過程をも変化させたと解釈できるのである。本論では,女神の祭礼の変容の様相を祭礼の行われる農村の社会変化と対応させながら具体的に記述し,最後に今日も依然として盛大に祝われるこの祭礼の今日的な意義を検討する。