著者
デ・アントーニ アンドレア
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.4, pp.654-673, 2022-03-31 (Released:2022-07-20)
参考文献数
64

本稿は、現代日本における「憑き」や「憑依」を通して治癒した人々の経験に焦点を当てながら、精霊が発生する過程や精霊を祓うことによる治療過程を検討する。徳島県にある賢見神社で参与観察した民族誌的データに基づき、情動・感覚、身体化された記憶と想像力との相互関係がいかに治療の効果や治癒と関わるのかを分析する。治療の受け手の治癒過程に注目しながら、情動・感覚、身体化された記憶と想像力の役割を検討した上で、憑依を通した治癒経験を理解するためには、ヒーラー側に焦点を当てるのではなく、受け手に焦点を当てるような分析モデルの方が効果的であると論じる。
著者
濱野 千尋
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第52回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.161, 2018 (Released:2018-05-22)

2016年の秋および2017年の夏の合計4か月間、ドイツにて行った動物性愛者たちへの調査から得られた事例を通して、人間と動物の恋愛とセックス、および動物性愛というセクシュアリティの文化的広がりについて考察する。異種間恋愛に見られる人間と動物の関係をダナ・ハラウェイの伴侶種概念を基盤に説明するとともに、動物性愛者のセックスが抑圧から脱する可能性を検討したい。
著者
松崎 かさね
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.87, no.3, pp.387-406, 2022-12-31 (Released:2023-04-21)
参考文献数
38
被引用文献数
1

本稿が取り上げるのは、パチプロ(パチンコ・パチスロで生計を立てる人)として約20年間生活してきた経験を持つAの語りである。彼は、プレーで最も重要なことは「期待値の積み上げ」であると語った。これは、期待値が高い台で繰り返しプレーすることであり、当時の彼はプロの中で一番になることを目指し、この実践に日々励んでいたという。けれども一方で、彼はこの実践を適度に抑えることのできる人間こそレベルの高いプロであるとも語った。本稿の目的は、この一見相反する事柄——「期待値を積み上げる」こととそれを抑えること——がなぜAにおいてどちらも重視されるのかを考察することである。彼によれば、「期待値の積み上げ」で重要なのは、その都度のゲームの結果よりも、期待値を根拠に打ち続けるプロセスの方であり、この実践によって長期的には収支がプラスに上向いていくという。さらに、彼は店や他の客に配慮してその日の稼ぎを適度に抑えることが、プロを長く続けるうえで重要なことであるとも語った。つまり、その場の利益という、賭けにおいてつい注目しがちなものから一旦視点を「はずし」、長期的な見方へと転換することが彼の思考の要諦だったのである。これを踏まえて本稿は、「期待値の積み上げ」を抑えることはその積み上げを至上とするプロに相応しいプレーであったことを提示する。
著者
濱野 千尋
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第51回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.C10, 2017 (Released:2017-05-26)

本発表の目的は、ドイツにおける動物性愛者の任意団体「ZETA(Zoophiles Engagement fur Toleranz und Aufklarung/ Zoophiles Commitment for Tolerance and Awareness/ 寛容と啓発を促す動物性愛者委員会)」に属するメンバー8名へのインタビュー・データをもとに、人間と動物の関係、特に獣姦(Bestiality)および動物性愛(Zoophilia, Zoosexuality)を考察することである。
著者
清水 芳見
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.166-185, 1989-09-30 (Released:2018-03-27)

本稿では, ヨルダンの北部のクフル・ユーバーという村の邪視信仰について, 記述, 考察する。この村では, 邪視は妬みと不可分に結びついており, 妬みが生じるような状況下では, どんな人間でも邪視を放つ可能性があるとされている。邪視除けの方法として, この村でもっともよく行なわれるのは, 邪視にやられると思われたときに特定の文句を唱えることであり, 邪視にやられて病気になったときの治療法としては, sha' ir al-mawlidと呼ばれる植物などを焚きながら特別な祈念をしたり, クルアーンの章句を唱えたりすることがよく行なわれる。この村では, 邪視を放った者を公に告発するようなことは行なわれないが, この告発ということに関連して, 邪視を放ったという疑いをかけられないようにするための方策がよく巡らされる。最後に, この村では, 邪視がつねにイスラームというコンテクストのなかで理解されているということが, 本稿全体を通して明らかになった。
著者
髙山 善光
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.358-376, 2018 (Released:2019-05-12)
参考文献数
66
被引用文献数
1

これまで呪術を説明すると考えられてきた「類似」は、認知科学の発展によって、普遍的な認知機能の一つであることが明らかにされ、呪術に限定されるものではないということがわかってきた。このため、呪術の知的世界の特徴を理解するためには新たな理論が必要であり、この新しい理論の形成に向けて、「思考の現実化」という考えを私は以前提出した。本論では、この「思考の現実化」という理論を深めることで、近代「呪術」概念の定義の問題を乗り越え、新しく「呪術」を定義してみたいと考えている。近代呪術概念の特徴は包括性にあり、その包括性は、「呪術」が宗教的認識によって現実化された推論を意味しているということに起因していると主張したいと思う。 近年の呪術概念に関する議論は、大きく二つの潮流に分けることができる。まず一方には、この近代的な呪術概念を放棄すべきだと考える研究者がいる。そして他方で、やはり保持すべきだと主張する研究者がいる。本論ではまず、この矛盾は、前者の研究者が、近代的な呪術概念の包括性に対する理解を欠いていることに起因しているということを論じた。そして次に、この包括性は、「呪術」が推論という普遍的な要素を指しているということに関係があると議論した。 しかし、この呪術的な推論には、宗教的である一方で、科学的にも判断されるというさらなる問題がある。この問題を解くために、次に、宗教的認識という独自の理論を用いた。結論として、私は、近代的な呪術概念は、この宗教的認識によって現実化されている推論のことを指している概念だと結論づけた。そのために、呪術は、宗教的認識あるいはその推論的な側面のどちらに注目するかによって、宗教的にも、科学的にもなり得ると論じた。
著者
赤澤 威
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.517-540, 2010-03-31 (Released:2017-08-18)

アフリカで誕生したホモ・ハイデルベルゲンシスがネアンデルタールと新人サピエンスの最後の共通祖先である。ヨーロッパ大陸でハイデルベルゲンシスからネアンデルタールという固有の系統が誕生する20万年前、アフリカでは現代人の祖先集団、新人サピエンスがやはりハイデルベルゲンシスから生まれる。新人サピエンスは10万年前からアウト・オブ・アフリカと称される移住拡散を繰り返し、ユーラシア大陸各地に移り住み、その一派はヨーロッパ大陸にもおよび、その地に登場するのが新人の代名詞ともなっているクロマニョンである。ヨーロッパで共存することになった入植者クロマニョンと先住民ネアンデルタールとの間にどのような事態が生じたか、結末はクロマニョンの側に軍配が上がり、ネアンデルタールは次第に消滅して行き、絶滅した。この結末については考古資料、化石、遺伝子の世界で明示できるが、なぜ新人に軍配が上がったのか、両者の間には一体何があったのか、何が両者の命運を分けたのか、誰もまだ答えをもたない。このネアンデルタール絶滅説の検証に取り組み、数々の成果を挙げたのが"Cambridge Stage 3 Project"(T.H.van ANDEL&W.DAVIES eds.2003 Neanderthals and modern humans in the European landscape during the last glaciation)である。Stage3とは6万年前から2万年前のこと、ヨーロッパ大陸は最後の氷期に当たり、同時にクロマニョンの入植そしてネアンデルタールの絶滅という直近の交替劇の起こった時代である。本プロジェクトは、交替期の気候変動パタンとそれに対するネアンデルタールとクロマニョン両者の適応行動の違いをみごとに復元した。この研究によって交替劇の存在を裏付けるデータは着実に蓄積され、交替劇がいつ、どこで、どのような経過をたどって進行したか、少なくともヨーロッパ大陸を舞台とする交替劇に関する記述的部分は具体化され、交替期における旧人社会と新人社会の間の相互作用の概略が見えてきた。本稿は、同プロジェクトの成果を参考にしながら、ヨーロッパ大陸を舞台にして、両者はいつ、どこで、どのような経緯をたどって交替していったか、その概略を述べ、そこから交替期の時代状況に対して両者の採った適応行動の違いを考察し、交替劇の原因に迫ってみたものである。
著者
廣田 龍平
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

本分科会では、日本の「妖怪」概念の再検討を出発点として、前近代的な民間伝承から最先端の科学技術までを事例として取り扱い、フィールドにおける「有形と無形のあいだ」のものと人々とが織りなす関係性にアプローチすることを試みる。これは調査者の世界とフィールドの世界の二分法を問い直す一つの試みである。
著者
中空 萌 田口 陽子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.080-092, 2016 (Released:2017-10-16)
参考文献数
53

This paper explores the ways in which the concept of the “dividual” has functioned as a heuristic device for varied forms of anthropological thinking. Anthropologists study different cultures or societies to reconsider their own (often Western or universal)concepts. However, that has led to controversy, especially in terms of essentializing the “other” by exaggerating and reifying differences between “us” and “them.” This paper avoids the tension inherent in the binary of the Western/universal self and non-Western/local personhood by exploring “dividuality.” Dividuality, as opposed to individuality, has taken form through comparisons not only between the West and non-West, but also between two non-Western areas, namely South Asia and Melanesia. This paper extends the comparative enterprise to also take into account the di erent theoretical discussions that helped shape the concept in di erent ways across regions. Rather than relying on the conventional, linear assumption that concept-making is a matter of abstraction that necessary follows the concrete specificities of ethnographic data, the dividual offers a particularly strong illustration of the co-emergence of data and theory. Section II examines the Indian model of the dividual. David Schneider, emphasizing the importance of natives’ categories, proposed a framework with substance and code comprising American kinship. In McKim Marriott’s Indian ethnosociology, those elements were combined as inseparable “substance-codes,” exchanged by transactions of food, sexual fluids, or everyday conversations. The personhood thus constituted was dividual. In the Indian context, dividuality supported Marriott’s critique of Louis Dumont’s rigid dualism, centering on purity and impurity, since it emphasized the more dynamic and uid exchanges of substances. In spite of that, the Indian model was neglected for decades, most importantly because Marriott’s ethnosociological inquiry focused only on pure indigenous categories in an isolated way, which reinforced the assumption of different, Western categories. Section III traces how the dividual was subsequently recovered and applied to Melanesian anthropology. Roy Wagner transported David Schneider’s model to Melanesia, and Marilyn Strathern extended Wagner’s argument by transforming the dividual to explore the main topics of contemporary Melanesian studies. In particular, central to Strathern’s endeavor was a critique of mainstream Marxist feminist theory deployed to analyze systemic gender inequalities in Melanesia, and her alternative elaboration of the gender of the gift. Of equal importance were Wagner’s heuristic approach toward Melanesian personhood and Strathern’s strategy of continuous comparison between Melanesian and Euro-American contexts. Rather than seeking local dividual personhood or indigenous categories, their projects have suggested how individuals emerge through dividuality. Because of that attitude, their arguments were widely influential among Melanesianists, who sought novel explanations for continuities and changes in Melanesian societies. Furthermore, Strathern has re-contextualized her idea of dividuality to the West, drawing an analogical comparison between the dividual in Melanesian personhood and merographic relations in English kinship. The final section summarizes differences in concept-making between Indian ethnosociology and the Melanesian heuristic approach. Moreover, juxtaposing the Indian model with contemporary situations, it suggests fresh insights for understanding humanity when individuality is not taken for granted.
著者
藤本 武
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.75, no.3, pp.347-370, 2010-12-31 (Released:2017-06-23)
被引用文献数
1

近年アフリカにおける小規模な紛争について環境変化による希少な資源をめぐる争いとする議論がある。牧畜民と農耕民の間の紛争では放牧地を確保しようとする前者と農地を拡大しようとする後者の土地をめぐる争いとされる。本論はエチオピア西南部の牧畜民と農耕民の間で発生してきた紛争事例について検討を行った。この地域では低地に暮らす牧畜民間の紛争が変動する環境下での資源確保や民族形成との関連で考察されてきた。ところが牧畜民の一部は1970年代から近隣の山地に暮らす農耕民を襲い、遠方の農耕民にまで対象を拡大してウシなどの財を略奪してきた。本論の分析から、紛争の背景には19世紀末にしかれた牧畜民と農耕民に対する国家の異なる統治策、国家支配のエージェントである入植者の私的関与、20世紀前半に主として農耕民になされた奴隷狩り、そして近年の自動小銃の流入など、外部からの地域への関与の問題が無視できないことが明らかとなった。じつは、他のアフリカの牧畜民と農耕民の紛争でも、紛争当事者間の土地などの資源をめぐる争いの背景に、国家や国際機関などによる開発政策が結果として争いを激化させていたり、過去の奴隷制が集団間の関係に影響をおよぼしているなど、資源紛争の構図におさまらない同様の問題が認められた。小規模な紛争を対象に、その個別具体的な相を掘りさげて分析する人類学の紛争研究は、今日常套句的になされがちな紛争説明に対して発言していくべきであるとともに、紛争後も長期に関わることで地域の紛争予防にむけた動きを支援するなど、独自の貢献を果たしていくことが求められる。
著者
廣田 龍平
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

本発表は、日本の「妖怪」を人類学的に把握することを通じて、「無形と有形のあいだ」に現われるフィールドの諸対象を位置づける概念として提示するものである。事例として用いるのは、柳田國男が昭和初期に著した「妖怪名彙」に現われる妖怪、そしてネット怪談として知られる「くねくね」という妖怪の二つである。
著者
川口 幸大
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.153-171, 2019 (Released:2019-11-11)
参考文献数
57

本稿は、大学入学を機に東北地方で暮らすことになった関西出身者としての私の自己と他者認識の形成、およびその変遷についてのオートエスノグラフィである。関西と関西人については、主にマスメディアから発せられる画一的な表象によって、その「ユニークさ」が広く人口に膾炙している。私は地元にいた18歳までは厳密な意味で自分が関西弁を話す関西人であると意識したことはなかったのだが、仙台で暮らすようになってから、関西人はよくしゃべる、どこでも関西弁を話す、面白い、値切ることができる、ガラが悪い、納豆が嫌いといったステレオタイプに基づくまなざしを受け、次第にそれを内面化させた振る舞いをして関西人として生きるようになった。今回、オートエスノグラフィのかたちで改めて関西人としての自己について思考し記述してみて分かったのは、それらのトピックを冗談以上の主題に発展させることは難しく、結局のところ個人的な差異の領域に帰されること、かつその背景には私を含めた日本の文化人類学における自己/他者認識の偏った枠組みが遍在していることである。他方で、私のこの状況は、エクソフォニー(母語の外にある状況)についての議論さえも相対化しながら、自己/他者認識の軛を自らの個人的次元で受け止め、それを弛めうる可能性につながることも明らかになった。
著者
池田 光穂
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第49回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.B12, 2015 (Released:2015-05-13)

この分科会は、発表者の各々が文化人類学、社会人類学、生態人類学、医療人類学、芸術人類学、宗教学等の学徒として、各々のフィールド経験からインスパイアーされた「犬との出会い」を、さまざまな文献を渉猟しつつ、知的に再構成した試論の集成として出発する。本分科会は、従来の「人間と動物」の関係論という研究分野が、もはや「動物一般」として取り扱えない状況に到来しつつあることを、多様な事例を通して指摘する。
著者
石橋 鼓太郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.87, no.3, pp.421-440, 2022-12-31 (Released:2023-04-21)
参考文献数
43

本論文は、現代日本における行政を主催とした市民参加型の音楽実践〈千住だじゃれ音楽祭〉を研究対象とし、そこで探究される「だじゃれ音楽」なる新たな音楽の形態と、行政が期待する「つながり」との相互関係を明らかにするものである。それによって、現代日本において制度的に規範化された関係としての「つながり」やそれに基づく音楽観を相対化するとともに、その只中において別様の関係や音楽のありようを模索する「ポスト関係論」的な音楽研究の可能性を提示することを目指す。 だじゃれ音楽において見られる「だじゃれ的」な関係とは、思いついただじゃれをつい言ってしまうように、内的な必然性にしたがってふるまうことで、外的な規範から「浮いた」ままの状態を保つような関係である。一方このような関係は、「つながっているか、いないか」を問う行政的なつながりの規範に基づくと、「つながっているような、いないような」ものとして映り、それによって両者の関係は「浮いた」ままにされ、音楽実践の制度的な基盤は保たれ続けている。 以上の記述を通じて、人類学者にとっての関係概念や音楽概念を対象に即して組み直していく戦略としての「ポスト関係論」を、あらゆる関係へと開かれているがそれ自体は関係に満たない「プロト関係論」によって実行することを試みる。
著者
島田 将喜
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第47回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.117, 2013 (Released:2013-05-27)

動物行動への理解がすすむにつれて、私たちは動物に対して過剰な合理性を押し付け、動物は無駄な殺しをしないはずだと信じている。しかしヒトにもっとも近縁なチンパンジーにおいては、他の動物を殺す場合に、必ずしも明確な殺意や動機が存在しているとは解釈できない事例などが多数あることが分かった。こうした観察結果は、動物においても不合理な殺しはさまざまな形で遍在することを示唆している。