- 著者
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入不二 基義
- 出版者
- 山口大学
- 雑誌
- 山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
- 巻号頁・発行日
- vol.3, pp.41_a-58_a, 1994
"It rains."の"It"は、非人称表現である。無主体論は、"I think."(=cogito)を、同様に、非人称表現として捉えようとする,つまり、コギトにおける「私」は、二人称・三人称と対比される一個の人格的「自己」ではなく、非人称的なものだから、"I think."ではなく"It thinks."あるいは"There is some thinking."と表現するのが相応しい、と無主体論は主張する。 このような無主体論の主張は、例えば、ウィトゲンシュタイン、シュリック、ストローソン等の著作の中に見ることができる。以下、本論のIとIIIでは、それぞれシュリックとストローソンによる無主体論の定式化をまとめ,IIとIVではウィトゲンシュタインの無主体論について、それがシュリックやストローソンのものといかに異なるかを明らかにする。つまり、無主体論は、表面的には上述のような「一つの」主張のように見えても、実は、全く異質な二つの方向性を内包しているのである。その方向性の違いは、「独我論と無主体論の関係」の捉え方における差異である。その観点から見るならば、シュリックとストローソンの議論は根本的に同型であり、その同型性に回収されないウィトゲンシニタインの議論の中にこそ、良質の独我論の問題を読み取ることができる。「良質の独我論の問題」とは、「一人称⇔三人称の非対称性」と「隣接項のない私性」という独我論の二面性・二重性の問題である。 この「二面性・二重性」の問題を、どのように扱うかということが、本稿の最重要課題となる。ある時期のウィトゲンシュタインは、この問題を「二つの異なるルル・表現様式」として解釈する方向性をとっていたが、本稿は、その方向性をとらないことをVで述べる。 「類比」という考え方を、独我論の語り方の問題に導入するならば、「二面性・二重売」の問題は、ポジティブな形で生かすことができるというのが、本稿の立場である。その類比とは、「私の所有物」:「私の感覚」=「私の感覚」:「私の固有性」=「私の固有性」:「隣接項のない絶対的な私の唯一性」という類比関係である。この類比をたどり「私」という主体の強度を上げていくことは、逆に「主体」としての意味を「私」から消し去っていくことに他ならないのであり、その消去された地点を指し示すことが、「無主体論」の一つの可能性であることを、本稿はVIにおいて主張する。