著者
土屋 勝彦
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.67-82, 2004-01-10

多和田葉子の文学は、言語表現への不可能性を表明しつつ、それでもなお不可視のものの言語化を試みようとする脱領域化ないしは越境的な言語空間の創造に向かう。ドイツと日本の両言語文化のエートスから逃れ、それらの中間地帯に独自の「民俗語的詩学」を構築しようとするのである。『無精卵』では、語り手の視線の変容によって幻視される事物の変貌を語りつつ、分身からの身体的な逆襲による自己否定を通して、語り自体が否定される。『飛魂』では、意味性(シニフィエ)と表象性(シニフィアン)の変転と循環のプロセスにおいて、音声映像の言霊の力が発揮され、表象文字の映像化が身体の言語として発現する。ここには言語遊戯と言語実験の中から生まれる新たな言語表現構築への強い志向が一貫して見られる。異質で奇矯なイメージの衝突によって想起される文学空間は、夢と現実の狭間に浮かぶ幻視の反物語であり、世界の認識不能性を示す。国民文化に還元されえない、語りえぬ中間地帯への絶望的な志向性こそ、越境文学の持つ宿命的なデラシネのパトスを支えるものに他ならない。

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