- 著者
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佐藤 虎男
- 出版者
- 大阪教育大学
- 雑誌
- 大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
- 巻号頁・発行日
- no.23, pp.p1-28, 1975-01
私は、いま、「現象」(かたち)への強い興味をおぼえている。興味では足りない。現象至上の思いといったものをである。かたちこそが、内実の脈動を真正直に伝えてくれるすべてだからである。語はなんらかの音節連続体である。「アタマ」は3音節から成るが、そもそもこの3音節を結合して語とする作用はなにか。それは、意義とアクセント(この場合,語アクセント)である。語アクセントは、意義を意義たらしめるべく(意義を定着せしめるべく)音節を使って語を形成する作用である。この作用は、通常、組織的な傾向を示す。いわゆるアクセントは、この作用の外形ないしは作用上の強い傾向,型をさすことが多い。アクセントを,形態の名とする以前に、まずは作用と解することが有益なのではなかろうか。語の形の決定にあたって、語アクセントがこのように働くのと同様、文の形の決定にあたっては、文アクセントが働く。文アクセントは、文の形を最後的に定着せしめる作用であり、傾向である。この、文アクセントと語アクセントとは,いちおう別段の秩序のもとにありながら、もちろん不可分の密な交渉関係にある。すなわち、文アクセントは語アクセントを駆使し統御する。その統御のしかたには、またそれなりの一定傾向,類型がみとめられる。個人差を越えた、社会的習慣としての傾向がである。方言生活における表現の具体的単位が文である以上、アクセント観察に、文アクセントを先んずべきこと,逸すべきでないことは、自明のことのように思うのである。前稿(「伊勢大淀方言の特殊な文アクセント」大阪教育大学紀要、第22巻、第1部門、55頁)で私は、大淀の方言のナチュラルな文の抑揚を観察し、そこにみとめられる文アクセント諸傾向について述べた。どこの方言についても、なんらかの文アクセント傾向が帰納できると思われるが、大淀の方言の文アクセント傾向のうちのあるものは、当地に比較的近い土地の方言のそれに比して、いちじるしく異態を示している。とくに、話部中の一音節が卓立する傾向が強く、その卓立が,近在方言文アクセントには見られないような位置に現われるのである。その結果、〓に代表されるような特異なアクセント波が把握された。これが、文中のどの話部かに現われると、(文中くりかえし現われればなおのこと)その文アクセントは、特異波に色どられることとなる。ところで、大淀方言の文アクセントが、このように特色の明らかなものでありながら、別に調査した当地の語アクセント状況は、おおむね近畿一般の語アクセント状況に近く、言うところの特異な文アクセントに対応するような語アクセントは、わずかにみとめられるにすぎなかったのである。なぜこうなのであろうか。本稿はそれを承けて、当方言の語アクセントおよびその文アクセントとの関係について考察しようとするものである。具体的な文において、文アクセントは、語アクセントとどのようにかかわっているであろうか。また、語アクセント観察は、文アクセント観察とどのように関連づけられるのであろうか。山野に降り積もった雪の起状は、雪面下の地表の起伏に支えられている。それが淡雪であれば、ほとんど地表の凸凹そのままに雪面をつくるけれども、雪国の深雪は、地表の起伏を蔽いつくして大きくうねる。雪面と地表の相関にお国ぶりがあろう。文アクセント下の語アクセントを見て、よく文アクセントの形象の「自然」を理解することができると思われる。起伏に富んだ雪面の美と真を見るのと、雪面下の状況を認識するのとは、両立させるべきものであろう。従来のアクセント研究界では、結果として語アクセントあるいは文節アクセントに主眼が置かれてきて、文の抑揚、文アクセントについてこれを真正面からとりあげることは、盛んでなかった。少なかった。寺川喜四男博士が「アクセントの基底としての『話調』の研究」(『国語アクセント論叢』昭和26年)に、諸説のいきとどいた紹介整理をしておられるが、そこに見られるような、諸先学のすぐれた指摘、方向づけにもかかわらず、その後今日まで、どれだけ具体的な記述的研究を展開させてきたか、不明にして私は多くを知らない。その中で藤原与一博士と、山口幸洋氏のお二人の、それぞれ独自の、一貫した研究には、教わる所が多い。藤原博士のもっとも近いご発表、,『昭和日本語方言の記述』(三弥井書店,昭和48年)であるが、そこで博士は、櫛生方言の文アクセント傾向と語アクセント傾向とを対比考察していられる。これをさきの比喩をもって言えば、ある地域の雪の起伏に一定の傾向がみとめられるならば、地表の凸凹にも、なんらかの(ほぼ相即対応する)傾向がみとめられるはずである。この、傾向と傾向との対比的把握が、具体文アクセントの基本的理解を可能ならしめるということであろうと思う。大淀方言文アクセントを、このような対比の方法でみた場合には、前稿に述べたように、特色ある文アクセント傾向を説明しうる語アクセントの傾向は、明確にはみとめられなかったのである。もしいま、この事態をこのまま受けとめて解釈しようとすれば、文アクセント上のあの特色ある波立ちは、一種のあだ波のようなもので、傾向というにあたいせぬ微弱なもの、アクセントの基質をなすほどのものでない、ということになるのであろうか。つまり、当地の汎近畿的語アクセントは、当地の汎近畿的文アクセントの優勢に由来するものであって、問題の特異な文アクセントは、いわば偶発的をものにすぎないとすべきものなのであろうか。私の調査によれば、前稿に報告したような文アクセント傾向が、当方言の文アクセントの一特質傾向たりえているのは、明らかな事実と言わざるをえないのである。その後の調査によって知りえたところをここに補えば、大淀のと同似の文アクセント傾向は、南隣の村松(伊勢市村松町)にも見られ、いまのところ、ほぼこの二集落が、問題の文アクセントを特立させているようなのである。志摩は答志島の、鳥羽市桃取の文アクセントもまた、一種独得の文アクセントであることを、ここに思いあわせるならば、大淀方言における特異な文アクセントを、一特質傾向と認めてその存立事情を追求することは、意味あることとされようか。意外に根の深いものかもしれないのである。村松と桃取の文アクセントについては、いくつかの文アクセント例を本稿末尾に(補注)として掲げるにとどめ、くわしくは別の機会にゆする。In the last number, I reported some peculiar intonation patterns in Ise-Oizu dialect. Then, in this paper, I describe the definite patterns of pitch-accent are found in the same dialect.