著者
小野 恭靖
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.99-115, 1999-01

日本古典文学に見られる言語遊戯の問題は近年に至り、次第に重要な視点として注目を集めつつある。日本語の言語遊戯は大きく"しゃれ""なぞ""戯語"の三種に分類できる(鈴木棠三説)が、本稿ではそのうち"戯語"を代表する"回文"について新見を交えて整理していきたい。"回文"はその性格から主として韻文の文芸作品において展開を見せたので、本稿での論述に際しては回文和歌・狂歌、回文連歌・俳諧という二項に集約させる形式で述べていくこととする。
著者
小野 恭靖
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.41, no.2, pp.p133-147, 1993-02

ここに紹介する『朗詠要抄』は、その奥書の署名から円珠本と呼ばれる朗詠九三首を収録する譜本である。これは、魚山と称される天台声明の中心地大原に伝えられた朗詠譜本という点で貴重であるが、そればかりでなく、その奥書により原本は法深房(藤原孝時)所持本であったことから、藤家流朗詠の流れを伝える一本としても重要な位置を占めている。一方、本書は既に活字本や写真版本として提供されている後崇光院本『朗詠九十首抄』、流布本『朗詠九十首抄』、『朗詠要集』、因空本『朗詠要抄』、陽明文庫本『郢曲』などとともに朗詠古譜として著名であるにもかかわらず、従来まったく本文が公刊されていない。本稿は円珠本『朗詠要抄』の中でも、最善本と目される京都大原三千院円融蔵本を底本として翻刻し、伴せて解題を試みるものである。
著者
長谷川 ユリ
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.55-65, 1997-08

本論文では, 日本語のアスペクトを表す形式の一つである「テアル」を取り上げ, その中心的な意味はどういうものか, 又, その意味は何によって決まるのかということを明らかにするために, 語彙的, 構文的の両面から考察した。まず, 動詞の語彙的な意味特徴を分析し, テアル形になる動詞は, [+意志性][+完結性]という語彙特徴を持つことが明らかになった。それによって, 動作・行為を表す動詞の中でも, 意志を持って主体的に働きかけ, 完結する動きを表す動詞のみがテアル形になる, ということが分かった。さらにテアルを「存在文型」と「動作文型」の2つに分けて観察を行った。「存在文型」は行為がなされたことによって物が存在するということを表し, 「動作文型」は行為の結果, その行為がなされたことが事実として存在するということを表している。「ある意志的な行為が成り立った結果, 物や事柄が存在する」というテアルの中心的な意味が, 行為の結果存在するのが具体物か抽象物かということで2つの類型に分かれ, 前者の場合, 「~ガ~テアル」の形をとった時, 後者は「~ヲ~テアル」の形をとった時にそれぞれの類型が典型的な意味を表すということが明らかになった。更に, テアルとアルの意味的な関係, テアルとテイルの比較などもあわせて行った。
著者
大藤 幹夫
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.38, no.2, pp.p93-106, 1989-12

本稿は,本学国語国文学教室発行の「学大国文」第32号に発表した「宮沢賢治童話研究資料覚え書(4)-1950年代の研究傾向をさぐる(1)-」の続稿である。第1報 『宮沢賢治童話の世界』(日本児童文学 別冊)すばる書房発行 昭51・2・20 第2報 大阪教育大学紀要 第25巻 I 人文科学 第2号 昭52・2・28 第3報 大阪教育大学国語国文学教室発行「学大国文」第20号 昭52・2・1 第4報 同上 第32号(鈴木修次教授退官記念論文集) 平1・2・28
著者
吾妻 修
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.51, no.2, pp.209-221, 2003-02

モリエール作の喜劇『ドン・ジュアン』は、スペインのドン・ファン伝説に想を得た作品である。しかしモリエールのドン・ジュアンは単なる女たらしではなく、思想上の真摯な造型である。ドン・ジュアンとは何者か。Dom Juan de Moliére est l'œuvre qui emprunte ses éléments à la légende du célèbre séducteur espagnol.Mais le héros de Moliére n'est pas un simple galant.C'est un per-sonnage qui réalise le nihilisme comme le résultat des aventures de sa pensée.Pour l'eclaicir nous avons examiné les particularités de l'amour de Dom Juan,son idée concernant la morale,et son mode de conduite.Nous avons aussi indiqué que le séducteur,quoiqu'immoral,est un homme de grand mérite à cause de sa sincérité propre.Puis nous avons exposé le rapport de la raison et de la conscience,qui se trouvait au fond des problémes du nihilisme.Enfin nous avons vu quel est le sens de la décision de Dom Juan de devenir hypocrite,laquelle le conduit à la perte.
著者
家木 康宏
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.73-85, 1999-01

アガサ・クリスティの作品には, 彼女の生まれ育ったデヴォン州が舞台としてよく登場する. 本稿は家木[1997]の続編であり, デヴォン州, コンウォール州など, クリスティの物語の舞台とその記述の関係を, 実証的に論じたものである. 彼女の物語に現れる地名は, 彼女がよく知っていた場所を描いたものと, 名前だけを借りたものとの2種類がある. また, 特に特定のモデルを持たず, いわゆる「メイヘム・パーヴァ」の概念に基づいて描写されている場所も多い. それと同時に, 物語の中で重要な役割を演じることがある鉄道についてのクリスティの知識についても引き続き論じたい.
著者
大藤 幹夫
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
no.22, pp.45-54, 1974-02

宮沢賢治の作品は、「色彩と光」の文学とよばれる。その色彩の中でもとくに青系統のものに彼の特質がうかがわれる。その意味で彼は「青型」の作家ともいえよう。この特質は、彼の全作品-短歌・詩・童話-についていえるものである。本稿では、彼の童話作品の中に見られる青系の色彩語をとりあげることによって賢治童話-ひいては賢治文学-の特質を検討したい。また、彼の作品の特質であるその多様性をさぐるために青系の色彩語による「空」の表現をとりあげた。

1 0 0 0 IR 啓蒙と自然(4)

著者
正塚 晴康
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.49, no.1, pp.1-19, 2000-08

魔女狩りとニュー・サイエンスの胎動が、これまたほぼ同時期に平行的に現象している。なぜそういうことになるのかを考え、次いでニュー・サイエンスが自然観とどうかかわるかに思いをめぐらす。当初、自然支配的であった自然科学だが、発展してゆく過程で、却って自然愛的感性の露払いをする点を強調する。Überall in Europa griffen berüchtigte Hexenjagden wütend um sich,als die New Science dort in Bewegung war.Wieso ereigneten sich gleichzeitig und parallel die rationalste und die irrationalsten? Wie hatte überhaupt die New Science mit der Naturliebe zu tun? Ob die neue Naturwissenschaft, die am Anfang so naturfeindlich gewesen war und beabsichtigt hatte, die Natur zu beherrschen, im Zug ihrer Entwicklung umgekehrt nicht eino Rolle des Wegbereiters für die Naturliebe spielte. Im vorliegenden Teil der Abhandlung geht es um solche Probleme.
著者
佐藤 虎男
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
no.23, pp.p1-28, 1975-01

私は、いま、「現象」(かたち)への強い興味をおぼえている。興味では足りない。現象至上の思いといったものをである。かたちこそが、内実の脈動を真正直に伝えてくれるすべてだからである。語はなんらかの音節連続体である。「アタマ」は3音節から成るが、そもそもこの3音節を結合して語とする作用はなにか。それは、意義とアクセント(この場合,語アクセント)である。語アクセントは、意義を意義たらしめるべく(意義を定着せしめるべく)音節を使って語を形成する作用である。この作用は、通常、組織的な傾向を示す。いわゆるアクセントは、この作用の外形ないしは作用上の強い傾向,型をさすことが多い。アクセントを,形態の名とする以前に、まずは作用と解することが有益なのではなかろうか。語の形の決定にあたって、語アクセントがこのように働くのと同様、文の形の決定にあたっては、文アクセントが働く。文アクセントは、文の形を最後的に定着せしめる作用であり、傾向である。この、文アクセントと語アクセントとは,いちおう別段の秩序のもとにありながら、もちろん不可分の密な交渉関係にある。すなわち、文アクセントは語アクセントを駆使し統御する。その統御のしかたには、またそれなりの一定傾向,類型がみとめられる。個人差を越えた、社会的習慣としての傾向がである。方言生活における表現の具体的単位が文である以上、アクセント観察に、文アクセントを先んずべきこと,逸すべきでないことは、自明のことのように思うのである。前稿(「伊勢大淀方言の特殊な文アクセント」大阪教育大学紀要、第22巻、第1部門、55頁)で私は、大淀の方言のナチュラルな文の抑揚を観察し、そこにみとめられる文アクセント諸傾向について述べた。どこの方言についても、なんらかの文アクセント傾向が帰納できると思われるが、大淀の方言の文アクセント傾向のうちのあるものは、当地に比較的近い土地の方言のそれに比して、いちじるしく異態を示している。とくに、話部中の一音節が卓立する傾向が強く、その卓立が,近在方言文アクセントには見られないような位置に現われるのである。その結果、〓に代表されるような特異なアクセント波が把握された。これが、文中のどの話部かに現われると、(文中くりかえし現われればなおのこと)その文アクセントは、特異波に色どられることとなる。ところで、大淀方言の文アクセントが、このように特色の明らかなものでありながら、別に調査した当地の語アクセント状況は、おおむね近畿一般の語アクセント状況に近く、言うところの特異な文アクセントに対応するような語アクセントは、わずかにみとめられるにすぎなかったのである。なぜこうなのであろうか。本稿はそれを承けて、当方言の語アクセントおよびその文アクセントとの関係について考察しようとするものである。具体的な文において、文アクセントは、語アクセントとどのようにかかわっているであろうか。また、語アクセント観察は、文アクセント観察とどのように関連づけられるのであろうか。山野に降り積もった雪の起状は、雪面下の地表の起伏に支えられている。それが淡雪であれば、ほとんど地表の凸凹そのままに雪面をつくるけれども、雪国の深雪は、地表の起伏を蔽いつくして大きくうねる。雪面と地表の相関にお国ぶりがあろう。文アクセント下の語アクセントを見て、よく文アクセントの形象の「自然」を理解することができると思われる。起伏に富んだ雪面の美と真を見るのと、雪面下の状況を認識するのとは、両立させるべきものであろう。従来のアクセント研究界では、結果として語アクセントあるいは文節アクセントに主眼が置かれてきて、文の抑揚、文アクセントについてこれを真正面からとりあげることは、盛んでなかった。少なかった。寺川喜四男博士が「アクセントの基底としての『話調』の研究」(『国語アクセント論叢』昭和26年)に、諸説のいきとどいた紹介整理をしておられるが、そこに見られるような、諸先学のすぐれた指摘、方向づけにもかかわらず、その後今日まで、どれだけ具体的な記述的研究を展開させてきたか、不明にして私は多くを知らない。その中で藤原与一博士と、山口幸洋氏のお二人の、それぞれ独自の、一貫した研究には、教わる所が多い。藤原博士のもっとも近いご発表、,『昭和日本語方言の記述』(三弥井書店,昭和48年)であるが、そこで博士は、櫛生方言の文アクセント傾向と語アクセント傾向とを対比考察していられる。これをさきの比喩をもって言えば、ある地域の雪の起伏に一定の傾向がみとめられるならば、地表の凸凹にも、なんらかの(ほぼ相即対応する)傾向がみとめられるはずである。この、傾向と傾向との対比的把握が、具体文アクセントの基本的理解を可能ならしめるということであろうと思う。大淀方言文アクセントを、このような対比の方法でみた場合には、前稿に述べたように、特色ある文アクセント傾向を説明しうる語アクセントの傾向は、明確にはみとめられなかったのである。もしいま、この事態をこのまま受けとめて解釈しようとすれば、文アクセント上のあの特色ある波立ちは、一種のあだ波のようなもので、傾向というにあたいせぬ微弱なもの、アクセントの基質をなすほどのものでない、ということになるのであろうか。つまり、当地の汎近畿的語アクセントは、当地の汎近畿的文アクセントの優勢に由来するものであって、問題の特異な文アクセントは、いわば偶発的をものにすぎないとすべきものなのであろうか。私の調査によれば、前稿に報告したような文アクセント傾向が、当方言の文アクセントの一特質傾向たりえているのは、明らかな事実と言わざるをえないのである。その後の調査によって知りえたところをここに補えば、大淀のと同似の文アクセント傾向は、南隣の村松(伊勢市村松町)にも見られ、いまのところ、ほぼこの二集落が、問題の文アクセントを特立させているようなのである。志摩は答志島の、鳥羽市桃取の文アクセントもまた、一種独得の文アクセントであることを、ここに思いあわせるならば、大淀方言における特異な文アクセントを、一特質傾向と認めてその存立事情を追求することは、意味あることとされようか。意外に根の深いものかもしれないのである。村松と桃取の文アクセントについては、いくつかの文アクセント例を本稿末尾に(補注)として掲げるにとどめ、くわしくは別の機会にゆする。In the last number, I reported some peculiar intonation patterns in Ise-Oizu dialect. Then, in this paper, I describe the definite patterns of pitch-accent are found in the same dialect.