- 著者
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山内 友三郎
- 出版者
- 大阪教育大学
- 雑誌
- 大阪教育大学紀要. 第2部門, 社会科学・生活科学 (ISSN:03893456)
- 巻号頁・発行日
- vol.60, no.2, pp.79-90, 2012-02
Tokugawa Tsunayoshi was not only the fifth Shogun, but a learned scholar of Neo-Confucianism. He often gave lectures to his retainers on The I Ching and the Confucian classics. Tsunayoshi was a contemporary of the philosopher Ogyu Sorai, who developed Japanese Neo-Confucianism and part of shogun's advisory stuff. In this paper, I will closely examine Tsunayoshi's concept of `compassion for living beings' to show that his philosophy cannot be criticized from the perspective contemporary animal liberationism. The moral conflict between compassion for living beings and respect for humans addressed by Edo society, but their solution is not yet known in contemporary environmental ethics. Loyalty to one's own lord was considered a categorical imperative in the Chu Hsian fashion of the age. The forty seven ronin's act of revenge excited people and widely praised, yet it was illegal from the viewpoint of a social order that forbade private vendettas. Their action showed, accordingly, a sort of moral conflict between loyalty and social order. Tsunayoshi's solution was backed by Soraian ethico-politics that divides, as Hare did, moral thinking into two levels of intuitive and critical.永い戦国時代を経て,秀吉が達成した天下統一を家康が引き継いで,徳川政権が成立して,いわゆる「徳川の平和」が達成された。五代将軍,綱吉の時代には,ようやく政権も安定して,武断政治から文治政治へと転換期を迎えていた。朱子学が幕府のイデオロギーとして採用されて,幕府を支える思想的な背景となった。儒教は次第に土着化して独自の日本儒教が発展して徂徠学が成立した。本稿では,綱吉の「生類憐みの令」,に対する悪評がいわれのないものであることを検討する。綱吉は儒学の講義をした儒学者であったが,彼の「生類憐みの令」の思想的な背景は,特に仏教であるよりは,儒教の色彩の強いものであった。彼の政策に対する批判は,一つには彼の死後彼の政敵の意見が反映したものであり,他の一つは,西洋近代の人間中心主義に染まった後世の人たちによるものであった。西洋近代の人間中心主義批判に始まった動物解放は日本ではまだ十分に紹介されていないが,この方面から綱吉の見直しがなされて,現代では彼の名誉は相当挽回されている。しかし,人間を「万物の霊長」と見做す儒教的な人間尊重と,仏教的な有情に対する慈悲との対立・衝突をどう解決するかというモラルの葛藤の問題は,江戸時代の日本人は実際問題としては解決していたが,現代の環境倫理でも未だ十分に理論的には解決されていない。 他方,四十七士の問題は,主君に対する朱子学的な忠義のモラルと,徒党を組んだ武力闘争を禁ずる--安民安天下(社会幸福)のための--法秩序とが対立・衝突するモラルの葛藤と見ることができる。徂徠は「道」を,朱子学的な理によって決定される絶対的な道徳規範ではなく,安民・安天下のために,聖人が作った刑政礼楽(制度や教え)であるとした。綱吉は四十七士の問題に対して徂徠の意見を聞いて対処したが,忠孝のモラルを絶対のものと見ずに,社会幸福のために作られた二次的派生的なものと見て,社会幸福のための秩序を優先して,四十七士を処分した。綱吉は荻生徂徠の意見を取り入れたと言われているが,徂徠は「道」を天理自然のものではなく,制度や教え(刑政礼楽)として聖人である先王が人為的に作ったものであるとする。これはヘアの二層公利主義を先取する倫理学説であるが,綱吉のモラルの葛藤に対する解決法には,徂徠の理論が反映している。