著者
堀 恵子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.48, no.2, pp.87-97, 2000-01

松谷みよ子の育児日記とそこに記された子供たちの感性豊かな言葉を母体として誕生した「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズ。ママとモモちゃん,アカネちゃんの微笑ましい関係に読者の関心が集中しがちなこのシリーズにおいて,登場場面は少ないが,おおかみに変身するなど,一人,異彩を放っているのがパパである。本論文では,そのパパの存在に焦点を当て,パパと子供たちとの関係,そしてパパの描かれ方の変化と人間以外の存在への変身の背後にあるものは何かを考察したい。その際,事実関係を理解するために『松谷みよ子全エッセイ』全三巻と自伝的な『小説・捨てていく話』および神宮輝夫『現代児童文学作家対談』を参考にしたいと思う。This paper focusses on the unique character of Papa in "Momo-chan and Akane-chan" series by Matsutani Miyoko. Careful examinations of the author's essays, interview, and autobiographical novel, reveal that the metamorphoses of Papa in the series correspond with the changes of the author's feelings toward her former husband, and her consideration for the people concerned. The Papa Wolf, created by the author's second daughter's remark, enabled the author to depict her former husband without becoming sick or hurting anybody around her. As time went on, the Papa Wolf seemed to bear a more human-like character. But it was not until the author wrote a book of poetry which exposed all her indignation against her former husband that she could bring in a truly humane Papa who showed deep parental love to his daughters. The bond of affection between Papa and his daughters after the parents' divorce, is an important theme in the series, and Papa can be called a hidden hero. Having a divorce was not common in those days. Seeing a parent after the divorce was even more unusual. But they are becoming more and more common recently. There are more readers who could sympathize with the characters in the series from their own experience. The "Momo-chan and Akane-chan" series, in which Matsutani Miyoko dealt with those contemporary themes for thirty years, would be a perfect series of books for all the family members to read. The series would give them an opportunity to seriously think about their family ties.
著者
北川 純子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第Ⅰ部門, 人文科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.63, no.2, pp.25-43, 2015-02

明治大正期に中国革命を支えた運動家・宮崎滔天(本名・寅蔵,1871-1922)は,浪花節語りとしての一面をもつ。彼の生涯に関しては複数の先行文献があるが(たとえば上村 2001,渡辺 2006,榎本 2013),滔天が手がけ,「書かれたもの」の形で残されている浪花節台本の一本『天草四郎』は,ほとんど注目されてこなかった。この台本については,宮崎家に残されていたという自筆原稿の全体が『宮崎滔天全集』(以下,「全集」と表記)第四巻(宮崎;小野川(編)1973)に,また,冒頭「巻一」の部分が雑誌「祖国」第6巻第4号・宮崎兄弟特集号に,それぞれ収録されているが,自筆原稿に記された起稿の日付から約5年後,雑誌『講談倶楽部』に,滔天作「新浪花節 天草四郎」が連載されている。先行研究では連載・公開された『天草四郎』について,全くと言っていいほど触れられてこなかったが,自筆原稿と比較するとそこでは少なからず加筆修正が施されている。筆者は浪花節のSPレコードを調査する過程で,桃中軒一門の浪花節語り・蛟龍斎青雲によって滔天の没後に録音された〈天草四郎と由井正雪〉の詞章が,『講談倶楽部』に連載された『天草四郎』の「巻一」を用いたものであることに気づいた。本稿はこの発見を直接の契機とし,滔天と浪花節とのかかわりを概観した上で,浪花節台本『天草四郎』の検討を試みた小論である。MIYAZAKI Tôten(1871-1922), the Japanese activist supporting the China revolution in Meiji and Taishô era, became a pupil of TÔCHÔKEN Kumoemon(1873-1916), a naniwa-bushi narrator, at the age of 30. While Tôten wrote the naniwabushi-script "AMAKUSA Shirô" in 1910's, the script has attracted almost no attention until now. The author found out that the text of "AMAKUSA Shirô and YUI Shôsetsu", which KÔRYÛSAI Seiun, another pupil of Kumoemon, recorded on SP discs after Tôten's death, used the beginning section of the script "AMAKUSA Shirô" by Tôten. This article tried to examine Tôten's view to naniwabushi through discourse analysis and to consider the characteristics of the script "AMAKUSA Shirô"through the stylistic analysis.
著者
小寺 茂明
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.17-29, 2004-09-30

本稿は接触節 (ゼロ関係詞節) についての問題点あるいは特徴をさまざまな視点から検討したものである。まず, 接触節は古くからある英語であり, それを必ずしも関係代名詞の省略とは見ない, という考え方について述べている。その後に, 改めてそれらの問題点あるいは特徴について, 次のような点を明らかにしている。 (1) 名詞句の連続という構造上の特徴はあとに従属節が続く合図であり, 接触節と先行詞の間にはなんらのポーズもなければ, 目立ったピッチの変動もない。 (2) 接触節での主語には人称代名詞がきわめて多用されている。 (3) 接触節では伝達すべき情報は旧情報並であり, 情報量は極めて少ない。また, そのために接触節をなしている部分の語数については2-4語であり・きわめて少ない構成をしている。接触節は,つまるところ,直感的に理解できるようなレベルのものであり,詳しい関係代名詞などの合図などは不要なほどにやさしい構造, 換言すれば, 情報の少ない構造のものなのである。すなわち,接触節は情報量をいわばぎりぎりのところまで抑制したものであり,すべてがそのいわば「スリム化の方向」に向かっているものと考えてよいであろう。
著者
山内 友三郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.26, no.3, pp.133-144, 1978-03

本稿は『饗宴』におけるソクラテスのエロース論をとりあげて、倫理学的な解釈を試みたものである。そのさいとくにエロースの究極の段階における,美ソノモノを見て真の徳を生む、といわれている箇所(212a)を解明しようとした。またそのさいソクラテスがディオティマから聞いたとされているエロース論はソクラテスープラトンのものであることを前提とした。プラトンによれば感覚界において価値のある美しいものや秩序あるものは、すべて、永遠の存在であるイデアにあづかることによって、美しくもなり秩序あるものにもなるのであり、またそのことによって存在性をおびるのであって、美しくもなく秩序もないようなものは非有と考えられる。美しく秩序あるものであることは、その分だけ存在の刻印をおびることを意味している。神の創造作用によって、範型(パラデイグマ)に似せられて作られたためにこの宇宙(コスモス=秩序)は美しく秩序あるものになるのであって(『ティマイオス』28以下)感覚界はその意味では永遠の存在と無のあいだを揺れ動く映像のようなものである。したがって、この世界は秩序があることによって、イデア界と連続性をたもち、そのことによって全体が保たれているのである。「天も地も人間たちも神々も結合関連させているのは、交わりと友愛と秩序と慎慮と正義であって、このためにこの全体はコスモスと呼ばれる」(『ゴルギアス』508a)。さてエロースはまず何よりも美しいもの秩序あるものへの愛である。そして美と秩序とはイデア界・感覚界にわたってはりめぐらされているのであって、これに対応して、エロースはイデア界と感覚界とを仲介し結びつけているのである。天地はエロースがなければ瓦解する。エロースは偉大なるダイモーンであり、「神々と人間の中間にあって、両者のあいだを仲介し、間隙をみたしていることによって、全体は自己と結合している」(『饗宴』202e)。さらにまた美しいものは感覚界にあって特別の位置をしめていて、イデアを映す影のようなもののうちで、もっともよく見られるものである。『パイドロス』(250d)の神話によれば、人はこの世の美を見て、真の美を想起する、と言われているが、正義や慎慮やその他価値あるものについての、この世におけるいわばイデアの影像を見ても、とくべつの光を発するものではないが、美だけはこの世における影像が光り輝いていて明晰に視覚にうつるのである。このために美は感覚界のうちにあって、イデア界への通路の役割をはたすことになる。『饗宴』におけるエロース論は『国家』における善のイデアをめざす教育課程と本質的に同一の目的をもち、それを,美を媒介にして端的に示したものと考えられる。美しいものは美によって美しい(『パイドン』100d)のであって、美しいものはもっともイデア(形相)に似ていると考えられる。エロースは単なる欲求ではなく美への欲求であることによって、直接にしろ間接にしろ、イデア界への憧憬ともなりうるのである。したがって、エロースは、美を媒介にして、イデア界へと上昇しようとすることによって、真の知をえようとする愛知者でもあるのである。というのは、プラトンによれば、イデアのみが真の意味での有であって、これを対象として知識が成立するのである。感覚界にあるものは、有と非有の中間であって、それを対象としては知識はありえず、ただ思惑(ドクサ)があるだけである(『国家』478d)。エロースは知と無知の中間にあって、美を手がかりにして、真の知を求めているのである。知が見える形をとるとすれば恐るべきエロースをひきおこしたであろう(『パイドロス』250d)といわれるが、美しいものは、イデア界への通路として、知が見える形をとったものの相似物のようなものと考えられる。In this essay I have tried to interpret ethically the last stage of the ascent passage of eros in Diotima-Socrates speech of 'Symposion'. In the ascent passage of eros, if guided aright, the lover will begin to love beautiful bodies and then beautiful souls and be forced to contemplate the beauty in human conduct, laws and knowledges and finally absolute beauty itself. This beauty itself is thought to be the source of order in the intelligible world as well as in the sensible world. The love of the source of order, when directed into the soul of the lover himself, becomes the reason which orders eros for beautiful things in the sensible world. Therefore to strengthen the eros of beauty means to strengthen the eros of order in the soul. This is a real meaning of bringing forth true virtue by means of seeing beauty itself.
著者
山下 博司 古坂 紘一
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.38, no.2, pp.163-173, 1989-12

Murukan-Subrahmanya,God parexcellence of the Tamils,has been plausibly believed to be a son of Siva and Uma-Parvati and also to be the younger brother of elephant-headed Ganesa-Ganapati.There is another belief,on the other hand,that Murukan is the son of Korravai,the ancient Dravidian goddess of war and victory.How can such a twofold parentage of Lord Murukan be historically explained?When did such conventional relationship centered around this adolescent god come to be known?And,does his relationship with other deities represent any essential nature of God Murukan?In this paper,to find a clue to these questions,we will closely examine the so-called Cankam classics,the literary corpus written in ancient Tamil,so that we may catch a glimpse of extra-Sanskritic or,more particularly,Dravidian notions of the sacred which presumably gave profound influences on the formation and the development of the religious ideas and institutions of the Southern Hindu cultures.今日南インド・タミル地方(ナードウ)の民衆の間で絶大な人気と信仰を集める童子神ムルガン(スブラマニヤ)には,その出生に関して一定の神話的説明が施され,一般にも広く信じられている。この神の誕生にまつわる纏まった記述は,タミル語の古典として知られるサンガム文献の後期の諸作品中に初めて現れるが,そこに見出される説話のプロットは,北方インドの軍神スカンダ(クマーラ,カールッティケーヤ)の出生譚の言わば一つのヴァリエーションとも呼ぶべきものであって,ムルガンの誕生説話が,南インド・ドラヴィダ世界に固有の文化的・宗教的伝統に根差したものというより,寧ろサンスクリット系のエピックやプラーナの甚大な影響のもとに形成されたものであることを強く示唆している。同様のことは,ムルガン神の家族関係をめぐる神話的説明に関しても確認することができる。例えば,ムルガンとガネーシャ(ガナパティ)は兄弟をなし,共にシヴァ神の息子と信じられているが,シヴァの息子としてのガネーシャの初出は遅く,サンガム文献中では全く言及を受けない。ムルガンとシヴァ=パールヴァティー,或いはコットラヴァイ女神との親子関係についても,後期に成立した一部の作品を除いて,サンガム文献にはそれを支持する積極的な証拠が欠如している。これらの事実は,ムルガン神の出生と家族関係をめぐる神話や一般の信仰が,概して,タミル地方が北方インドからの絶え間ない文化的影響を吸収・同化する過程で,数世紀にわたって徐々に成立・定着を見たものであることを暗示している。
著者
小野 恭靖
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.63-74, 2009-09

「隆達節歌謡」は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、高三隆達の節付けによって評判を取った一大流行歌謡である。隆達は大永七年(一五二七)に泉州堺の地で生誕し、慶長一六年(一六一一)に八五歳の生涯を閉じたが、同時代に同じ堺で活躍した町衆は多い。中でも三宗匠と称された茶人の千利休、今井宗久、津田宗及の存在は無視できない。他にも早歌という歌謡に秀でた松山新介がいた。本稿では安土桃山時代の歌謡界をリードした「隆達節歌謡」の心とことばの中に、同じ時空を生きた堺文化圏で育まれた精神、とりわけ堺の茶人たちの「わび」の心が反映されていることを具体的に考えていきたい。"Ryutatsubushi-kayo"became very popular from the Azuchimomoyama era to the early years of the Edo era. They are songs which were sung by Takasabu Ryutatsu who lived in Sakai. In those days three great genius of the tea ceremony, Sen-no-Rikyu, Imai Soukyu, Tsuda Sougyu, flourished in the same place. They thought "wabi"was very important mind in the tea ceremony. In this report it is written that there is similar mind to"wabi"in the words of "Ryutatsubushi-kayo"
著者
枡形 公也
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.38, no.1, pp.49-66, 1989-08

In looking back upon the history of Kierkegaard's reception in Japan,we can naturally see the development of Japanese understanding of Kierkegaard,but we can also see something more interesting in the reflection of the circumstances of Japanese thinking from the Meiji Era.We can divide the history of Kierkegaard research in Japan in the following way:1.tha dawn(1968-1906)2.first period-introduction of Kierkegaard to Japan(1906-1914)3.second period-Watsuji's Kierkegaar(1914-1920)4.third period-Assimilation and Kierkegaard Renaissance(1920-1945)5.forth period-existentialism becomes polular(1945-1970)6.declining interest(1970-present)Each period brought forth an image of Kierkegaard according to the contemporary intellectual trend.There were many reasons why Kierkegaard read.But now Kierkegaard in the present situation.At any rate in this situation there is a trend to understand Kierkegaard internally from the viewpoint of Danish thought of his own age.Furthermore insofar as Japan is increasingly influential in the world,many foreign Kierkegaard in no longer solely the province of Western scholars,so there is a new tendency within Japan to respond to this interest.This article was presented at Kierkegaard's 175th Aniversary Conferrence at the University of San Diego in February 1989.日本におけるキェルケゴール受容史を振り返ってみると,そこには単に日本の研究者によるキェルケゴール理解の姿が見られるだけでなく,より興味深いことには,日本の思想状況がくっきりと浮かび上がってくるということである。日本におけるキェルケゴール受容史の時期区分をしてみれば,次のようになる。1.キェルケゴール受容前史(黎明期)(1880~1906)。2.第一期 キェルケゴール紹介期(1906~1914)。3.第二期 1914~1920頃。4.第三期 1920頃~1945。第一次キェルケゴールブーム。5.第四期 1945~1970。実存主義の流行。6.現在まで。それぞれの時期にはその時代思潮に応じたキェルケゴール像が生まれた。それはまたそれぞれの時代においてキェルケゴールが読まれる理由があったからである。しかし今日の日本ではキェルケゴールは殆ど読まれていないといってよいであろう。そこにはまた隠されたキェルケゴール像というものが存在している。いずれにせよ,この様な状況にあって,日本においては初めてキェルケゴールをデンマークの思想状況の中において,内在的に理解しようとする気運が芽生えており,他方で,日本が世界的に注目を集める中で,海外から日本におけるキェルケゴール研究のあり方に関心(この関心は以前の様に,極東の仏教国である日本で,なぜキェルケゴール研究が盛んであるのかというような,異国情緒的な興味に基づくものとは異なっていると思われる)が寄せられ,それに答えようとする研究動向が見られるようになってきた。本論文は1989年の2月にサン・ディエゴ大学で開催されたキェルケゴール生誕175年記念会議で発表したものである。
著者
小野 恭靖
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第Ⅰ部門, 人文科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.51-55, 2013-09

日本語のことば遊びを積極的に活用した俳諧作品があった。その多くは江戸時代初期に貞門と称される人々の間で創作されたが、その一人であった野々口立圃には回文の発句を記した短冊が残されている。本稿はその短冊資料を紹介し、初期俳諧の歴史の中に位置付けることを目的とする。Some haikai (俳諧) made use of Japanese plays on words. Most of them were composed by the Teimon (貞門) group of haikai in the early period of the Edo era. Nonoguchi Ryuho (野々口立圃) was one of the members of the Teimon group. The oblong card in which he wrote the first phrase of the haikai using the palindrome remains now. The oblong card is introduced in this report. It is positioned in the history of the earlier haikai.
著者
小林 和美
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 1, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.1-18, 2013-02

教育熱の高さで知られる韓国では,中・高校生のみならず,初等学生(小学生)までもが外国に留学する「早期留学」と呼ばれる現象が拡大し,社会問題となっている。本稿の目的は,韓国教育開発院による統計資料の分析を通して,韓国における早期留学現象が1990年代半ばから今日までどのように推移してきたのかを概況的に把握することである。大統領の政権期(5年)ごとに4つの時期に分けて考察した結果,早期留学現象は,経済のグローバル化が進むなかで,国内の教育システムの問題だけでなく,世界的な経済状況,各政権の政策,労働市場の動向,マスコミ・世論の動向などの影響を受けつつ推移してきたことが明らかになった。In South Korea, a phenomenon called `Jogi-yuhak (pre-college study abroad, hereafter PSA)', junior/ senior high school students studying abroad, has spread even to elementary school children, and become a social problem. The aim of this paper is to grasp generally how the pre-college study abroad phenomenon in South Korea changed from the mid-1990s to today through the analysis of the statistical data surveyed by Korean Educational Development Institute. I examined the characteristics of the PSA phenomenon in each government period. The results are as follows. In the first period (the Kim Young-sam administration period) when the `Segyehwa (Total Globalization Policy)' became a state policy and PSA boom began, PSA phenomenon expanded from the limited wealth to the middle class. The number of PSA students, however, was still around 3,600 at most a year and most of the PSA students were junior or senior high school students. At the beginning of the second period (the Kim Dae-jung administration period), the number of PSA students greatly decreased under the influence of the currency crisis. But it rapidly increased after 2000, when economic conditions recovered and a full liberalization policy of PSA was shown by the government. Finally in 2002 the number exceeded 10,000. During this period the following were noted: the increase of elementary school children the metropolitan area (around Seoul City) sending out majority of PSA students the target countries focusing on English speaking countries (U.S.A., Canada, New Zealand) the increase of returning students including PSA students (over 8,000 in 2002) and yet about 20,000 departure surplus about 65% of the returnee students coming back to South Korea within two years In the third period (the Roh Moo-hyun administration period) when the economy was prosperous, the number of PSA students increased remarkably and reached about 30,000 in 2006. The PSA was now a choice in the life design for more children. The PSA phenomenon spread to Gyeonggi-do in the suburbs of Seoul and other cities, and the lower age PSA children were still on the increase. China and Southeast Asian countries rose to the second destination countries next to U.S.A. The large departure surplus continued, although the number of returnee students greatly increased, exceeding 20,000 in 2007, their stay abroad getting even shorter. In the fourth period (the Lee Myung-bak current administration period), the number of PSA students largely decreased under the global economic slump in spite of a further surge of the English fever in South Korea. The view that the PSA boom was now over was also shown because of the criticism and the doubt for the effect of the PSA. Tendencies of the lower aging of PSA students and the concentration to the metropolitan area are still seen. Southeast Asian countries are now the second popular destination countries after U.S.A. because one can learn English at relatively small expense. The number of the returnee students reached a highest record with about 24,000 in 2009, three years after the peak of the PSA students, reducing the departure excess to about 6,000. After 2009, the proportion of the returnee students who stayed longer in foreign countries is increasing.
著者
小野 恭靖
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.99-115, 1999-01

日本古典文学に見られる言語遊戯の問題は近年に至り、次第に重要な視点として注目を集めつつある。日本語の言語遊戯は大きく"しゃれ""なぞ""戯語"の三種に分類できる(鈴木棠三説)が、本稿ではそのうち"戯語"を代表する"回文"について新見を交えて整理していきたい。"回文"はその性格から主として韻文の文芸作品において展開を見せたので、本稿での論述に際しては回文和歌・狂歌、回文連歌・俳諧という二項に集約させる形式で述べていくこととする。
著者
住谷 裕文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.57, no.2, pp.17-38, 2009-02

昨年リヨンで1867年に刊行された英語による中国と日本のガイドブックのコピーを入手した。1867年というと日本は江戸時代もまさに終わろうとする時期で,この年の11月9日大政奉還が行われ,翌年1月3日には王政復古が宣言される。この中国と日本の案内書はアヘン戦争後の中国-その隣国の屈辱にまみれた敗北を前に,開国を迫られ,主権が将軍から天皇に移行する激変を前にした日本を扱っている。本論稿はとりあえずはこのガイドブックの日本案内の部分の邦訳紹介と,その歴史的意義の分析がテーマである。ところで筆者がリヨン滞在時,当地では「世紀の精神-リヨン1800-1914」という企画展が市内の博物館,図書館,教育研究機関を網羅して開催されていた。このガイドブックを出版したイギリスで行われたわけではないが,いわゆる植民地帝国時代のヨーロッパの生活をつかむのにはまたとない機会であった。しかも近年日本では東南アジア・東アジア史(東インド会社史も含め)の研究がいよいよさかんになり,この時期の日本の鎖国開国の経緯がこれらの地域の国々と比較検討できる状況になってきた。また岩波書店の『大航海時代叢書』をはじめさまざまな旅行記がすでに翻訳され閲読可能な状態であり,キリスト教伝道と欧米諸国の海外進出の関係についても先鋭な研究が蓄積されつつあるように思われる。また欧米における18世紀以降における旅行ブームと旅行案内書の研究も見られるようになった。こうした中で今回,1867年刊行の中国・日本案内の紹介をなしうることは筆者にとり望外のよろこびである。今回は翻訳紹介する資料の概要についてまず述べると同時に,ガイドブックそのものの誕生の背景と本書の性格について,現在までに気づいた点を指摘したい。I世界最初の英文日本ガイドブック,II本書の対象とする国と都市,III『米欧回覧実記』との対比,IV刊行当時の世界とガイドブック-なぜ「『知』の収奪」か?Jusqu'ici on croyait que le guide du Japon en anglais avait ete publié pour la première fois en 1891 à l'édition de Murray et qu'il avait utilisé le contenu des deux differents, l'un sur Nikko et l'autre sur le Nord et le Centre du Japon, édités principalement par Ernest Satow. Mais nous en avons decouvert un plus ancien qui avait ete compilé à Honkong en 1867, un peu avant la Restauration de Meiji. Nous allons présenter tout d'abord le sommaire de ce livre en parlant de ses quelques valeurs historiques et notre traduction en serie.
著者
小野 恭靖
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 (0xF9C1)人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.41, no.2, pp.p133-147, 1993-02

ここに紹介する『朗詠要抄』は、その奥書の署名から円珠本と呼ばれる朗詠九三首を収録する譜本である。これは、魚山と称される天台声明の中心地大原に伝えられた朗詠譜本という点で貴重であるが、そればかりでなく、その奥書により原本は法深房(藤原孝時)所持本であったことから、藤家流朗詠の流れを伝える一本としても重要な位置を占めている。一方、本書は既に活字本や写真版本として提供されている後崇光院本『朗詠九十首抄』、流布本『朗詠九十首抄』、『朗詠要集』、因空本『朗詠要抄』、陽明文庫本『郢曲』などとともに朗詠古譜として著名であるにもかかわらず、従来まったく本文が公刊されていない。本稿は円珠本『朗詠要抄』の中でも、最善本と目される京都大原三千院円融蔵本を底本として翻刻し、伴せて解題を試みるものである。
著者
北川 純子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 1 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.27-43, 2011-02

日本の「語り物」の一ジャンルである浪曲では,うたいかたる声ならびに伴奏をうけおう三味線の双方が,演じるたびごとに異なるパフォーマンスを行なうという「即興性」をもつ。本論文は,浪曲三味線の即興性のありかたの一端を探る目的のもとに,過去の録音物における「弾き出し」(前奏部分)を対象とする分析を行い,どのような枠組に基づいて即興が行なわれるのかという「見えない音楽理論」の解明を試みたものである。考察の結果,「弾き出し」末尾に位置する明確な機能をもった音型と,浪曲の史的展開の過程でストックされてきた音型の二者が,即興の準拠枠としてはたらいていることが浮かび上がった。Rokyoku, which arose in Meiji era, is a subgenre of Japanese katarimono(a narrative music), performed by a pair of a rokyokushi(a vocalist) and a kyokushi(a shamisen player). There are no notation systems in teaching and learning of rokyoku and rokyoku shamisen, and the rokyoku performances constantly include some sort of improvisation. The purpose of this paper is to examine some aspects of improvisation in rokyoku shamisen. Through analyzing the "hikidashi", i.e. the instrumental prelude part in rokyoku, the author tries to clarify some aspects of "invisible musical theory" about rokyoku shamisen. The results show that there are "guiding motifs" at the end of hikidashi which guide rokyokushi to his her vocal pitch and that there are some "formulaic figures" which have been used in rokyoku shamisen. These motifs and formulaic figures are thought to serve as the "models" of improvisation in rokyoku shamisen .
著者
山内 友三郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.55-70, 1971

「このコスモス(宇宙、秩序)は、すべてにとって同じであるが、神々にしろ人間にしろ、誰が作ったものでもなく、常にあったし、あるし、あるであろう。メトロン(度、矩)に従って燃え、メトロンに従って消える永遠の火として」(DK. 22B30)、「太陽はそのメトロンをこえないであろう。もしこえれば、ディケー(正義の神)の助力者たるエリニュエス(復讐の神々)が見つけ出すであろう」(DK. 22B94)、という言葉がヘラクレイトスのものとして伝えられている。また、アポロニアのディオゲネスによれば、冬夏、夜昼、天候など「すべてのものに或る一定のメトロンがある」と云われている(DK. 64B3)。一般に自然界においては一定の法則があって、自然は一定の限度をこえることがない。動物の行動もまた一定の限度をこえることはないと云われる。ところが人間だけは、その自由によって、自然の限界をふみこえ、たえず限度を見なう可能性をもっている。限度や節度をこえることを、古代ギリシア人は、ヒュブリス(暴慢,不遜)としてしりぞけた。有名な「君自身を知れ」(DK. 10A3, cf. Philebos 48c)にしても、ソロンに帰せられる「すごすな」(DK. 10A3, cf. Philebos 45e)にしても、あるいは七賢人の一人クレオブーロスのものとされる「メトロンが最善」(DK. 10A3)という言葉も、さらにタレスに帰せられる「メトロンをたもて」(DK. 10A3)も、このヒュブリスをいましめたものと考えることができる。人間に火を与えたプロメテウスはゼウスによって罰せられなければならなかったが、悲劇の主人公達も、人間としての限度をこえることによって、没落していったのである。ところが,現代は、限度や節度を失っているところに、その特徴がある、とされることがある(cf. Bollnow, s. 36ff.以下引用書名は、とくにことわらないかぎり、末尾の文献表にまとめて示して、頁数だけを記すことにする)。たとえば『悲劇の誕生』(Bd. I, s. 33ff.)において、デュオニュソス的なものに対して、アポロン的なもののひとつの徴表を節度のうちに見たニイチエは、他の箇所で、つぎのように云っている。「節度(Maß)がわれわれに縁遠いものとなったことをわれわれは自認する。われわれの欲望は無限・無節度なものの欲望である。奔馬をかる騎手さながらに,無限なものを前にして手綱をはなすのである。われわれ現代人、われわれ半野蛮人は。」(『善悪の彼岸』第七章224, Bd. II, s. 688)。ギリシア的なメトロンの考え方が最もよく現われている作品のひとつとして、プラトンの『ピレボス』をあげることができる。本稿は、メトロンの概念をひとつの導きの糸としながら、この対話篇の一解釈をこころみたものである。たとえばヴィンデルバントは、この対話篇について、およそ次のような意味のことを述べているが、きわめて核心をつく言葉とおもわれる。すなわち、「これはプラトンの哲学的倫理-ギリシア精神のもっとも純粋・貴重な産物のひつ-である。美と真理の理想をもって、くまなく感覚生活に光をとおすことは、ギリシア人の創作と造形芸術すべてにおいて私たちに語りかけていることであるが、このことがここで光を放っているのである。これは節度(Maß)につながれ、ハルモニアにみちている。そのために、プラトンはここで、円熟のさなかにあって、また形而上的思考の頂点にたって、二世界論によって基礎づけようとした神学的倫理の場合よりも澄明で輝やかしい色彩のうちに,人間存在を見たのである。」(s. 108)。しかしながら、節度といい、限度といっても、それだけでは相対的なものであって、中心、規準をどこにとるかによって規定されてくるはずである。では規準となるべき「尺度」はどこに求めるべきであろうか。まずこのことについて、『ピレボス』篇の背景をさぐりながら、考えてみたいとおもう。In der Interpretation des Philebos bemerkt man bisher nicht besonders die Bedeutsamkeit des Maßes (metron), etwa außer Natorp und Krämer. Daher übersieht man oft die Einheit des Dialogs. In dieser Abhandlung versuchen wir, die Einheit dieses sehr verwickelten Dialogs dadurch zu finden, daß wir den Begriff des Maßes als Leitfaden der Ariadne benutzen. Das Prinzip, das diese Welt des Werdens als gewordenes Sein aus Mischung von Bestimmtheit und Unbestimmtheit erzeugt, ist auch dasdas gemischte gute Leben erzeugende Prinzip. Dasselbe Prinzip der Bestimmtheit, d. h. des Maßes macht also diesen Kosmos schön und das Leben des Menschen gesetzmäßig und geordnet. Auch in der Erforschung von Lust und Erkenntnis teilt Platon, meiner Ansicht nach, diese in Klassen nach Kriterium des Maßes ein. Und das, was als maßhaft anerkannt wird, wird in das aus Lust und Erkenntnis gemischte gute Leben eingemischt als die Bestandteile desselben. Die fünf Stufenfolgen der sogenannten Guttafel (ktēma 66 a ff.) scheinen die innerhalb dieses gemischten Lebens zu sein. Also darf man dieselbe Stelle nicht so interpretieren, daß die ersten drei Stufen Maß, Schönheit und Wahrheit sind, die zusammen das Prinzip des Guten darstellen. Den ersten Rang hat das Maßhafte und Normhafte in dieser gemischten gewordenen Welt, den zweiten das Symmetrische und Schöne, den dritten die maßhafte Vernunft, den vierten die nicht so maßhaften praktischen Wissenschaften, den fünften die ungemischte wahrhafte, d. h. maßhafte Lust.
著者
山内 友三郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第Ⅰ部門, 人文科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.71-82, 2017-02

西洋近代主義(Western modernism)は人間と自然を分ける二元論であって,人間による自然と先住民支配を本質とする「人間中心主義」(anthropocentrism)に陥っている,--というのは現代の環境倫理の定説である。これが地球環境危機を惹き起こした思想的原因と考えられている。西洋近代主義の二元論に絶望した環境倫理学者は,東洋思想の「自然と人間を分けないで一体と見る一元論」(ないしは全体論)に注目するようになった。こうして西洋的二元論と東洋的全体論の対立が生じて,両者を統合するような哲学は未だ現れていないような状況である。1)日本儒学の主流では--西洋的二元論,東洋的一元論に対して--第三の道として,人間が自然に働きかけて自然を豊かにする,という思想があった。筆者はこの思想を「天地の化育を賛く」という儒教(『中庸』)に由来する日本思想の主流の一つとみて,この思想を地球的・人類的規模にまで拡張して再構成する試みを続けてきたが,その試みの一つが本稿に他ならない。叙述は次の順序で進められます。序 徳川の平和と西洋近代主義, I 加藤弘之の人権新説, II 和辻哲郎の世界国家の説, III 普遍的道徳はあるのだろうか, IV 西洋近代主義の崩壊と梅原猛の人類哲学, V 新・人類哲学の構造。Today's environmental crisis and the threat of war have made an global ethics necessary and even urgent. My trial in this paper is in the creation of an integral philosophy of humanity that should synthesize the philosophies of East and West. My strategy is mainly in the using Hare's method of dividing levels of moral thinking into two; that is, intuitive and critical. While Hare excludes the human moral concern for nature from his ethical system, Leopold's land ethic asks people to change the role of humans from a conqueror of nature toward a simple member of the land community. I tried in this paper to found Hare's two level utilitarianism on the basis of Leopold's land ethic; thus creating three levels of moral thinking. Applying this three level theory (that I call three level eco-humanism), I compare the traditional Japanese philosophy with Western modernism to find the way of combining both philosophies.
著者
北川 純子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第Ⅰ部門, 人文科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.23-43, 2017-02

本稿の目的は,浪花節(浪曲)の「家」(派)は何を継承してゆくのか,との問題の一端を,過去の録音物を対象とした音楽分析から導き出すことにあった。明治末期から昭和初期にかけて人口に膾炙した桃中軒家,吉田家の二つの「家」の浪曲師たちによる浪花節〈赤垣源蔵 徳利の別れ〉の音盤を素材に分析を行ったところ,一方で,題材をどのような詞章文言の連なりで誦するかという点と,他方で,「節」の設計,文言のほぼ7モーラ+5モーラのまとまりに対応する旋律断片,リズム等を総合した「節」の様式が,「家」によって継承されるとの見方が導出された。加えて,吉田家の二代吉田奈良丸が頻用し,弟子たちにも継承された定型性の強い特定の旋律断片が,大正期の流行り唄《奈良丸くずし》の旋律の一部として使われ,現在に至っていることが明らかになった。This article examines the narrative style of naniwabushi according to `ie' (schools) which consists of performers with the same last name. After analysing recordings by ten naniwabushi performers who belonged to the Tôchûken school and the Yoshida school, it became clear that several things had been handed down through the `ie'. Those were as follows: the words of the text; the structure of the `fushi' (melody); the positioning of the highest tone and lowest tone; and the frequent use of the same specific melodic fragment. Furthermore, it became clear that a specific melodic fragment sung by Yoshida Naramaru II appears in the Japanese song `Naramaru Kuzushi,' which is still popular today.
著者
住谷 裕文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 第I部門 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.27-47, 2012-02-29

第4回は1867年刊行の英文ガイド("The Treaty Ports of China and Japan")の横浜篇を扱う。横浜は開国後,江戸にもっとも近い港として,日本の発展に大きな役割を果たしてきた。横浜は開港にあわせて建設された居住地であり,1636年鎖国令下,ポルトガルとの交易のために築造された長崎の出島に似ていたため,外国人の中にはその二の舞になるのではと不安を覚える者も多かった。そうした中で外国人居留民と幕府,さらには明治政府とのねばりづよい交渉を通して,今日の横浜は形成されていった。横浜の発展は,日本の発展そのものを象徴し,また長崎とは違って,新しい日本を切り開く力はここからあふれ出た。 それと同時に,ガイドブックに記載はないが,つぎの事実にも我々は目を向けておかなければならない。横浜に真っ先に乗り込んできた商社の中に,ジャーディン・マセソン商会がある。これは中国のアヘン戦争を策動し,デント商会とともに中国のアヘン市場を独占した。日本の開港とともに長崎・横浜に進出し,横浜では居留地の一番館(英1番館)を占め,長崎では支店のグラヴァー商会が,薩摩・長州と深い関係を結ぶにいたっている。ハリスによって結ばれた修好通商条約によって,日本へのアヘンの輸入は封じられたが,こうしたことも頭に入れて,ガイドブックの中身を考えていかなければならない。ところで,町としての横浜には歴史がなく,ガイドブックの記述は生彩を欠く。それを補うように付け加えられているのが,鎌倉である。古都の京都・奈良の解説はサトウの1881年版の「中部北部日本案内」まで待たなければならないが,ヨーロッパ人旅行者が江戸に近いかつての首都鎌倉に見ていたものは,本ガイドブックにもよく感じられる。しかも横浜とセットになることで,不思議な魅力を醸し出している。構成から見ても,江戸篇の直前に鎌倉を置いているのは悪くない。 ところで「横浜篇」でもっとも我々の関心をひくのは,遊郭「岩亀楼」にかかわってフォーチューンが述べた,その言葉の引用であろう。日本についての本ガイドブックは,西欧文明が日本にそそぐまなざしそのものであり,その後のガイドブックとくらべて,学術的な厳密さを欠くとしても,観察者の率直な視線がつよく感じられる。なおこの遊郭と風呂の習慣についての指摘は,次回以降に考察を加えたい。The second chapter of this guidebook treats the most promising port of Japan, which finds itself within easy reach of Edo (the ancient Tokyo). There was no interesting historical monument here, except the ancient temples of Kamakura, a former political capital in its suburb. However, there was much trade. Many famous companies and banks in Asia rivaled one another to do business in this city, including Jardine Matheson & Co., Dent & Co., Walsh Hall & Co., etc. We will look at the development of exchange of the new occidental partner of East Asia through the growth of this newly built settlement.
著者
井上 直子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.41-54, 2002-09-10

プラトン以来, ミメーシスの問題は芸術の本質に関わるものとしてさまざまな議論を引き起こした。 19世紀まで, 対象を真似て描写することで成立すると見なされていた芸術は, オスカー・ワイルドの「芸術が本当に始まるのは, 模倣をやめたときである2)」という言葉に象徴されるように, 単なるコピーではなく, それ自体価値を持った領域として存続するようになる。 この変遷を, 19世紀から20世紀にかけてのフランスの絵画, 詩, さらに「純粋芸術」の概念の中に見ていく。Depuis Platon, l'essence de l'art en Occident consiste dans la mimésis. La notion de la mimésis doit être analysée à partir de deux points de vue : moral et esthétique. Du point de vue esthétique, l'art doit s'approcher de l'idéal. Les peintres classiques visent à représenter la beauté idéale ; les poétes classiques tentent de décrire ce qui est vraisemblable. Il existe une dissociation rigoureuse entre l'original et la copie, le représenté et le représentant. Cependant, cette tendance se modifie au 19e siècle. Comme l'affirme Oscar Wilde, <L'art ne commence vraiment que là où cesse l'imitation>. Le tableau devient l'expression de la vision saisie à travers le <tempérament> des peintres. L'original n'est plus supérieur à la copie, mais l'impression interne constitue l'essence du tableau. Dans la poésie, le langage n'apas de référent au monde réel. Le rapport entre le mot et la chose est détmit ; les choses apparaissent devant les poétes en tant qu'étre mystérieux libéré de la notion générale en acquérant l'étrangeté. Ces nouvelles tendances se résument dans la notion de l'art pur. L'art pur a comme origine <l'art pour l'art>, affirmation invoquéé vers 1840. L'art accepte une rupture entre la morale et lui-méme. Il ne posséde plus d'objectif précis tel que la morale ou la manifestation, mais il construit un champ fermé, anti-référentiel, autonome de la réalité.
著者
小野 恭靖
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.47-56, 2005-09-30

日本のことば遊びの一種に判じ物がある。判じ物は絵と文字を用いて、主として日本語の同音異義によって解読させる視覚的なことば遊びである。その判じ物の資料のうち、同類の名詞を解とする判じ物を一枚摺りの錦絵版画に集成したものがある。それはいわば判じ物の「物は尽くし」資料と言え、今日「物尽くし判じ物」と呼ばれている。「物尽くし判じ物」は岩崎均史氏によって精力的に紹介されている。しかし、近時岩崎氏未紹介の「物尽くし判じ物」二点、また岩崎氏に言及がありながら、写真等による紹介がなされていない「物尽くし判じ物」一点が管見に入り、その,後大阪教育大学小野研究室蔵となった。本稿は従来十分な位置付けがなされていない以上三点の「物尽くし判じ物」を、写真とともに紹介する論考である。
著者
小野 恭靖
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. I, 人文科学 (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.48, no.2, pp.109-116, 2000-01

江戸時代末期に爆発的に流行し、巷間に流布した"判じ物"資料に「もの尽くし判じ物」がある。「もの尽くし判じ物」は動物、植物、食品、調度品、風俗などの部類によるもの尽くし絵であるが、それがいわゆる"判じ絵"で描かれている点に特徴がある。また、「もの尽くし判じ物」は大判の錦絵摺りで、一枚物を基本としたが、二枚から数枚で一組とされた例も見られる。本稿では、「もの尽くし判じ物」を代表する三種の表現手法を取りあげ、それらが一朝一夕に成されたものではなく、日本語のことば遊びの歴史と伝統に基づいたものであったことを指摘する。"Monozukushi Hanjimono", which took the world by storm in the Edo era, is one of picture puzzles. The picture puzzles in "Monozukushi Hanjimono" are classified by subjects such as animal, plant, food, supply and public moral. They are Nishikie, which are color prints. This report treats three kinds of expressions in these picture puzzles, and indicates that their expressions were not made easily but had been made in the long history and tradition of Japanese language.