- 著者
-
石田 信一
- 出版者
- 跡見学園女子大学
- 雑誌
- 跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
- 巻号頁・発行日
- vol.35, pp.1-12, 2002-03-15
オーストリア支配下のダルマチア地方は一八六〇年代に「民族再生」と呼ばれるナショナリズムの時代を迎え、それまで明確な国民意識を持たず、しばしばコスモポリタン的態度を示していた住民の間でも、さまざまなタイプの国民形成の試みが見られるようになった。クロアチアおよびセルビアという「本国」の影響を受けつつ、同じスラヴ系住民の分化、すなわちカトリック教徒の「クロアチア人」化と正教徒の「セルビア人」化がほぼ同時に進行した。本稿では、このような時期に勃発したボスニア=ヘルツェゴヴィナ蜂起 (一八七五〜一八七八年) を取り上げ、同時代の新聞・雑誌記事および政治的指導層の書簡集等の分析を通じて、この事件がダルマチアにおける国民形成過程に及ぼした影響について再検討した。ボスニア=ヘルツェゴヴィナ蜂起はオスマン帝国からの解放を目標とするものであったが、もとより多民族・多宗教が混在する同地の帰属問題をめぐっては、クロアチアとセルビアが自国への併合を求めて争っていた。それまでクロアチアやセルビアほどに住民の国民的帰属意識が明確でなく、共通の「民族派」を組織していたダルマチアのスラヴ系住民も、「本国」のプロパガンダやメディアを通じた論争によって、クロアチア志向の人々とセルビア志向の人々に二分されるようになった。そして、蜂起終結後にセルビアへの併合を支持する正教徒指導者が「民族派」を正式に離脱して「セルビア民族党」を結成したことにより、両者の政治的分裂は決定的なものとなった。それと同時に、ダルマチアのスラヴ系住民は「クロアチア国民」あるいは「セルビア国民」という二つの異なる国民理念の下で、国民形成の新段階に入ったと考えられるのである。