著者
家田 修 佐々木 隆生 仙石 学 池本 修一 渡邊 昭子 中島 崇文 中澤 達哉 石田 信一
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2006

本研究では環境問題をも含めて公共財としてとらえ、総合地球環境学研究所との連携により、文理協働型の議論を行った。この結果、従来の政治共同体を基にした地域設定による圏域の設定を超えて、環境に基づく圏域(環境広域公共圏)が現在問題になりつつあることが本研究の成果として明らかになった。また住民へのアンケート調査の結果として、想定していたよりも人々の社会的な流動性は高くなく、地域コミュニティの役割が以前よりも重要になっていることが新たな知見として判明した。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.97-110, 2000-03-15

一九世紀を通じてダルマチアにおいて進展した国民統合過程との関連において、同時代のイタリアからの政治的・思想的影響、とりわけ統一国家形成をめざす運動、いわゆるリソルジメントが進展する中でのイタリア・ナショナリズムの影響について考察した。従来、クロアチア国民統合過程の視点からクロアチアとダルマチアの影響関係については多くの論考がなされてきたが、イタリアとの関係についての論考はなお不十分であり、本論はそうした事実に対する問題提起としての意味を持っている。一九世紀前半、ダルマチアの知識人の多くはイタリア系、スラヴ系を問わずイタリア諸邦で高等教育を受け、イタリア語を日常的に用いており、イタリアから最新の思想的潮流を学んでいた。オーストリアの強権的支配に抗議する意味で、彼らの中にはカルボネリアや「青年イタリア」を通じて提起されつつあったイタリア・ナショナリズムに傾倒する者もあった。しかし、多くの場合、彼らはリソルジメントを全面的に支持したわけではなかったし、ダルマチアを将来のイタリア統一国家の一部とは考えていなかった。一八四八年革命に際して、自治体レベルでも個人レベルでもヴェネツィアを支持する文書がほとんど残されていないことは、その証左である。イタリア人と南スラヴ人は反オーストリア的立場で共闘する側面を持ち、領土的要求を含む「民族」的対立は顕在化していなかったが、ダルマチアの知識人、とくにスラヴ系知識人はリソルジメントの中からむしろ自らの南スラヴ人としての国民形成・国民統合を実現する手法を学んでいったのである。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.99-113, 2006-03-15

両大戦間期のユーゴスラヴィアは四つの時期に区分することができる。(一)国家形態が定まっていない建国直後の時期(一九一八年〜)、(二)中央集権的で県(オブラスト)制度が導入されたヴィドヴダン憲法体制の時期(一九二二年〜)、(三)同じく中央集権的で州(バノヴィナ)制度が導入された国王独裁および欽定憲法の時期(一九二九年〜)、(四)クロアチアに一定の自治権を付与した時期(一九三九年〜)である。県制度は建国以前の歴史的単位を細分化・無力化することを主眼としていたが、その時期には辛うじて維持されてきた歴史的単位の枠組さえも、州制度への移行によって全面的に撤廃されてしまった。これは国家・国民統合の強化を目的とした措置であったが、歴史的単位を基盤とする分権体制を求めてきた諸集団から強い反発を招いて、ほとんど国内政治の安定化に寄与しなかった。とくにクロアチア人の間では早くからさまざまなバリエーションでの国家再編構想が提示され、連邦的再編への要求も強まっていった。それは一九三九年にクロアチア自治州が創設されることで部分的に実現したが、第二次世界大戦の進展により、その成果を検証しえないまま国家そのものが分裂・解体してしまった。本稿では、両大戦間期のユーゴスラヴィアにおける地方制度の変遷と国家再編構想について、とくに主要民族であるセルビア人とクロアチア人の関係に着目しつつ、主としてクロアチア側の視点から分析を試みている。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.1-18, 2010-09-15

旧ユーゴスラヴィア連邦から分離・独立したクロアチアの学校向け歴史教科書における近代史に関する記述の変化を、一九八〇年代末までの連邦時代、独立直後の一九九〇年代、新たな学習指導要領が導入された二〇〇六年以降の三期に分けて詳細に辿りつつ、その特徴と問題点を明らかにした。共産主義者同盟による一党独裁体制下にあった連邦時代においてさえ、クロアチアの歴史教科書は世界史(主にヨーロッパ史)、クロアチア史、その他のユーゴスラヴィア諸民族史の三層構造となっており、「国民史」的側面を持っていたが、必ずしもクロアチア史に関する記述の比率は高くなく、諸民族の融和を意図してユーゴスラヴィア主義(思想)や「民族体」への言及などの特別な配慮が見られた。しかし、連邦解体に伴う激しい「内戦」を経験した一九九〇年代の歴史教育・教科書は「国民史」一辺倒のものに変貌し、「狭隘な民族的歴史観」を押し付けるものとなった。それが近隣諸国間の不和を助長した面もある。最近では、近隣諸国との教科書対話などを通じて、かつてほど極端な記述は見られなくなり、「クロアチア国家(国民)教育基準」に基づく新たな学習指導要領の下で教科書の記述のあり方も多様化している。それでも、文化史・社会経済史に関する記述や「少数民族」に関する記述など、さらに改善すべき点も少なくない。クロアチアを含む旧ユーゴスラヴィア諸国において現在進行中の歴史教育・教科書の改善策は、同じように歴史教科書問題を抱える日本にとっても参考にすべき点があると思われる。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.A19-A30, 2005-03-15

本稿は一九九〇年代から現在に至るクロアチアの歴史教育と歴史教科書の問題について概括的な考察を行ったものである。九〇年に社会主義体制を放棄し、九一年にユーゴスラゲィア連邦から離脱して独立を達成したクロアチアは、この二つの変化を歴史教育の分野にも反映させる必要があった。それはクロアチア・ナショナリズムに立脚しつつ、連邦体制下で強調されてきた南スラヴ諸民族の一体的な歴史叙述を放棄し、かつてタブー視されていた<クロアチア独立国>などを再評価する動きにあらわれている。社会主義時代から国定教科書しか存在しなかったクロアチアでは、独立後も一元的な歴史教育が導入されていたが、一九九〇年代末から二〇〇〇年にかけて教科書出版社および教科書の複数化が実現し、各教科書の叙述もようやく一面的なものではなくなった。しかし、全体的にクロアチアの独自性を強調するあまり、周辺諸国との関係さえ理解しにくいほどに叙述のバランスを欠くものとなっており、現在では若干修正されているとはいえ、なお大きな問題となっている。また、教科書の種類の多さに比べると、各教科書の特徴はさほど明確ではなく、この点でも新たな教科書づくりが求められている。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.1-18, 2009-03-15

本稿では、複数政党制に移行した一九九〇年から二〇〇七年までのクロアチア議会選挙を中心に、クロアチアにおける選挙制度の変遷および選挙結果に着目し、まずは基礎データの整理を行いつつ、論点を提示した。 クロアチアでは議会選挙のたびに与党を利する形で選挙制度が大きく変わってきた。一九九〇年には完全な小選挙区制だったものが、一九九二年には全国区(比例代表方式)と小選挙区の二票制となり、二〇〇〇年には全国を一〇選挙区に分けた比例代表制に移行した。二票制の時期を通じて、全国区と小選挙区の定数も大きく変化している。どの選挙制度においても、一票の格差や選挙区の区割りなどが完全には解決されない問題として残された。 さらに、クロアチアでは、やや流動的な少数民族枠と在外同胞(ディアスポラ)枠の存在がつねに議論を呼んできた。一九九〇年代のクロアチアを内戦状態に陥れたセルビア人問題の解決策として少数民族枠は重要な意味を持ったし、同じく隣国ボスニアとの関係から在外同胞枠は必須とされたが、選挙制度上の取り扱いはきわめて不安定で合理性を欠く場合も多かったからである。 かつての大統領による権威主義体制から議会制民主主義へと移行したかに見えるクロアチアであるが、なおも選挙制度は固定的なものではなく、さらに変化していくように思われる。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.1-12, 2002-03-15

オーストリア支配下のダルマチア地方は一八六〇年代に「民族再生」と呼ばれるナショナリズムの時代を迎え、それまで明確な国民意識を持たず、しばしばコスモポリタン的態度を示していた住民の間でも、さまざまなタイプの国民形成の試みが見られるようになった。クロアチアおよびセルビアという「本国」の影響を受けつつ、同じスラヴ系住民の分化、すなわちカトリック教徒の「クロアチア人」化と正教徒の「セルビア人」化がほぼ同時に進行した。本稿では、このような時期に勃発したボスニア=ヘルツェゴヴィナ蜂起 (一八七五〜一八七八年) を取り上げ、同時代の新聞・雑誌記事および政治的指導層の書簡集等の分析を通じて、この事件がダルマチアにおける国民形成過程に及ぼした影響について再検討した。ボスニア=ヘルツェゴヴィナ蜂起はオスマン帝国からの解放を目標とするものであったが、もとより多民族・多宗教が混在する同地の帰属問題をめぐっては、クロアチアとセルビアが自国への併合を求めて争っていた。それまでクロアチアやセルビアほどに住民の国民的帰属意識が明確でなく、共通の「民族派」を組織していたダルマチアのスラヴ系住民も、「本国」のプロパガンダやメディアを通じた論争によって、クロアチア志向の人々とセルビア志向の人々に二分されるようになった。そして、蜂起終結後にセルビアへの併合を支持する正教徒指導者が「民族派」を正式に離脱して「セルビア民族党」を結成したことにより、両者の政治的分裂は決定的なものとなった。それと同時に、ダルマチアのスラヴ系住民は「クロアチア国民」あるいは「セルビア国民」という二つの異なる国民理念の下で、国民形成の新段階に入ったと考えられるのである。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.1-16, 2003-03-15

クロアチアにおける地方制度の歴史と現状を概観するとともに,とくにユーゴスラヴィア建国以降,地方制度がマイノリティ問題とどのような関わりを持ったかについて検討した。クロアチアにおける地方自治は,一九九二年に現行制度が発足した当初には多くの制約を受けており,自立性に乏しいものであったが,二〇〇一年の諸改革を経て,少なくとも制度的には自治権の拡大という方向で大いに改善された。それはクロアチアにおける伝統的な地方制度を継承しつつ,ヨーロッパ連合の基準への適合を意識した全く新しい地方制度となっている。また,マイノリティ問題についても,かつての差別的な政策が撤回され,言語・教育などの同権に向けた法的整備が進み,とくに地方レベルではそれらが着実に成果をあげている。セルビア人間題はなお未解決であるが,今後はヨーロッパ連合加盟との関わりにおいて解決がはかられると思われる。国家の統一を損なわない範囲で,いかに効果的に分権化を推進するかが,当面の課題となるであろう。