- 著者
-
梅村 博昭
- 出版者
- 東京農業大学
- 雑誌
- 東京農業大学農学集報 (ISSN:03759202)
- 巻号頁・発行日
- vol.51, no.2, pp.53-68, 2006-09-30
サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(『ライ麦畑でつかまえて』)とドストエフスキー『地下室の手記』を比較したリリアン・ファーストによる興味深い論考がある。両作品の主人公が半ば自らの意思で規範を逸脱していること,にもかかわらず他者との関係は完全に切れておらず,コミュニケーションとノン・コミュニケーションの間に引き裂かれていること,高度な自己評価と自己否定の間を揺れ動くこと,読者への呼びかけという手法をとっていることなどを指摘したものである。しかしそれらの類似点を参照しながら『地下室の手記』を再読すると,こんどは両作品の重なり合わない面が浮かび上がってくる。またドストエフスキー研究者の間では『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の源泉は,むしろ同じドストエフスキーの『未成年』や『カラマーゾフの兄弟』であるとの議論がある。ファーストの行っている比較自体が『地下室の手記』を実存主義の祖と考える1970年代的な文学的思潮のなかで可能であったという観もある。文学研究が様変わりしてしまった今,両作品を読み比べする行為は間テクスト性,脱構築といった概念を呼び込まずにはおかない。そして「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と『地下室の手記』は似ているか」という問いは間テクスト性の網の目の中でちりぢりに分解してしまうであろう。