著者
梅村 博昭
出版者
東京農業大学
雑誌
東京農業大学農学集報 (ISSN:03759202)
巻号頁・発行日
vol.52, no.4, pp.193-203, 2008-03-15

サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(『ライ麦畑でつかまえて』)の語り手ホールデンの語りにおいては人称代名詞youが多用されている。このyouは特定の「君」への呼びかけには収まりきらない意味の広がりをもち,特に翻訳においてこれをどう処理するかは大きな問題といえる。本論においてはライト=コヴァリョーヴァによるロシア語訳においてこのyouがどのように翻訳されているかを分析する。英語におけるyouが一般化された「ひと」を指すことがあるのと同様に,ロシア語においては,主語を省略し,主に二人称単数の動詞を用いて一般的な事柄をのべる普遍人称文がある。ロシア語訳では,ホールデンの多用するyouが多様に訳し分けられているが,ホールデンが純粋に個人的な体験を一般化し読者と共有しようとするまさにその局面で普遍人称文があらわれることがわかる。日本においては,野崎孝の訳がこのyouを普遍的な「人」を表すものとする立場をとり,極力訳さない自然な訳となっているのに対し,村上春樹訳はこのyouを特定の聞き手と解釈して「君」と訳す。この意図の当否の判断は難しいものの,日本語においても告白体文学で前提とされている潜在的な二人称の受け手を明示的に浮かび上がらせることとなった。
著者
梅村 博昭
出版者
東京農業大学
雑誌
東京農業大学農学集報 (ISSN:03759202)
巻号頁・発行日
vol.53, no.3, pp.243-252, 2008-12-10

deja luとは「すでに読んだことがあるという認識」である。テクストを読む「わたくし」が,作品Bのなかに作品Aに似た何かを発見するとき,「わたくし」が作品Aをかつて読んだことがあるというまさにそのことが事態の本質をなしている。つまり生きられた体験としての間テクスト性を観察するとき,その中核をなすのがdeja luという概念なのである。本論では立松和平『性的黙示録』にあらわれる夜汽車の場面が,サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』におけるホールデンとミセス・モロウとの出会いに酷似しているという発見を糸口に,deja luが間テクスト的読解へと展開していく過程を考察する。そのさい,ある種の理論家が唱える理念的な「読者」概念と生身の「わたくし」の経験の落差を記述する,という手法をとる。標準的なロシア文学研究者が『性的黙示録』のなかに認めるdeja luはドストエフスキーの諸作品の痕跡であると考えられるが,生身の「わたくし」が体験したdeja luはサリンジャー作品の上記の場面なのである。そしてサリンジャーと立松を対比させながら読むという営為もまた,両作家の作品の意義の解明に通じていることを示す。
著者
梅村 博昭
出版者
東京農業大学
雑誌
東京農業大学農学集報 (ISSN:03759202)
巻号頁・発行日
vol.51, no.2, pp.53-68, 2006-09-30

サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(『ライ麦畑でつかまえて』)とドストエフスキー『地下室の手記』を比較したリリアン・ファーストによる興味深い論考がある。両作品の主人公が半ば自らの意思で規範を逸脱していること,にもかかわらず他者との関係は完全に切れておらず,コミュニケーションとノン・コミュニケーションの間に引き裂かれていること,高度な自己評価と自己否定の間を揺れ動くこと,読者への呼びかけという手法をとっていることなどを指摘したものである。しかしそれらの類似点を参照しながら『地下室の手記』を再読すると,こんどは両作品の重なり合わない面が浮かび上がってくる。またドストエフスキー研究者の間では『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の源泉は,むしろ同じドストエフスキーの『未成年』や『カラマーゾフの兄弟』であるとの議論がある。ファーストの行っている比較自体が『地下室の手記』を実存主義の祖と考える1970年代的な文学的思潮のなかで可能であったという観もある。文学研究が様変わりしてしまった今,両作品を読み比べする行為は間テクスト性,脱構築といった概念を呼び込まずにはおかない。そして「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と『地下室の手記』は似ているか」という問いは間テクスト性の網の目の中でちりぢりに分解してしまうであろう。
著者
岩本 和久 梅村 博昭
出版者
稚内北星学園大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

本研究では1960年代以降のロシア文学に見られるスターリニズム表象の系譜について、リアリズムとポストモダニズムの間で揺れる現代ロシア文学の変化を参照しながら検討した。また、それら文学作品が21世紀のロシアにおいてテレビ・ドラマ化され、新たに神話化されていく様を検討した。それらを通し、現代ロシア文化におけるスターリニズム表象の志向として、悲劇の告発とユートピアの賛美という対立する要素を明らかにした。