著者
柿崎 正樹
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.19, pp.175-205, 2003-09-30

本稿では、トルコ共和国における共和人民党の社会民主主義政党への変容とそれに伴う党理念の変遷を、第三代党首ビュレント・エヂェヴイットの著作や発言を中心に分析することを試みる。共和人民党は共和国初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによって1923年に結党され、一党支配体制の下、共和国の近代化を進めるべく様々な改革を断行した。1931年には「六本の矢」として知られるケマル主義六原則を党大会で採択し、共和主義・世俗主義・民族主義・人民主義・国家資本主義・革命主義を党の行動理念とした。37年にはこれらは共和国憲法にも取り入れられ国是となる。トルコは第二次世界大戦後、その政治体制を一党支配体制から複数政党制へと移行させる。1950年総選挙では、共和人民党の非民主的かつ官僚主義的な政権運営に反対し、より自由主義的経済政策を追求する民主党が圧勝した。一方、共和人民党は1960年クーデターで軍部が民主党政権を崩壊に追い込むまでの10年間野党の座に甘んじ、選挙での敗北を重ねていく。しかし、この野党時代、特に民主党政権が独裁的傾向を強めていく50年代後半、共和人民党には改革志向の強い若手党員が加わり、新たな党のアイデンティティーの模索が始められる。その中から党首イスメット・イノニュの支持を背景に頭角を現し、共和人民党の「左回旋」の中心的人物となったのがビュレント・エデェヴィットであった。1965年にイノニュが共和人民党は「中道左派」であると宣言したが、エヂェヴィットはそれをアタテュルク革命の延長線上にあり、アタテュルク革命を補完する行動理念と位置づけた。さらに、イノニュに代わって第三代党首となったエデェヴイットは、「中道左派」を「民主左派」に改め、党綱領を一新する。そこではケマル主義と共に民主左派主義が併記され、エヂェヴィットの下で共和人民党が社会民主主義政党にむけてケマル主義の大幅な再解釈を行ったことが伺える。結論を先取りして言えば、共和人民党の社会民主主義政党化の狙いは、それまで大衆から隔絶された中央エリートの政党というイメージを払拭し、大衆利益を代表する政党への転換であった。そのために、共和人民党は大衆に対する従来の否定的な見解を肯定的なものへと逆転させ、さらに大衆を「経済的に搾取され、政治的に抑圧された人々」とした。そしてその大衆は労働者と農民からなる集団であるとしたのである。こうして共和人民党は労働者と農民の支持を取り付け、彼らの政治的経済的権益の拡大を求めて、「人民セクター」・「農業組合」・「農村都市計画」などの政策を掲げた。70年代にはその多分にケマル主義の要素を含んだ社会民主主義は、トルコの主要な政治潮流の一つとなっていったのである。

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こんな論文どうですか? トルコ共和人民党のイデオロギー変容(1965-1980) : ケマリズム、ポピュリズム、社会民主主義(柿崎 正樹),2003 http://id.CiNii.jp/UW0SL

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