著者
水谷 営三
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.323-351, 1993-03-31 (Released:2018-03-30)

The extensive use of chemical weapons by Iraq both against Iranian soldiers and its own Kurdish population was one of the most hideous aspects of the Iran-Iraq War (1980-1988). Based on American and Japanese newspaper reporting, this study includes a detailed chronology of dates and places of the use of the chemical weapons by Iraq in the war. This is the first of its kind in Japanese. It is hoped that the chronology will serve as source material for further study of the Iran-Iraq War. It is also the strong wish of this author that the study will contribute, however tangentially, to the abolition of chemical weapons by highlighting their inhumane nature.
著者
中田 考
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.281-308, 1990-03-31 (Released:2018-03-30)

The Sunnite jurisprudence defines the rbellion as "revolt against the ruler by force according to their ta'wil." Jurists come to this notion through their understanding of the wars following the death of the Prophet. Ibn Taimiya says that they confound wars of three different categories, i.e., Abu Bakr's wars against the Apostates, the Civil wars, and 'Ali's wars against the Kharijite, and consequently they consider all of them revolts against the ruler, and that subjugating them is obligatory, if they persist. Ibn Taimiya criticizes this conception, and says that the apostates and Kharijite must be subjugated, but as to civil wars, withdrawal from them is better. According to Ibn Taimiya, jurists' idea of "rebellion" stems from this confusion, and it is supposed to be treated as a civil war from which muslims had better abstain. Ibn Taimiya does not only criticize jurists, but also presents his alternative, which is "deviation from the shari'a," namely, muslims must fight not "rebels against a certain ruler," but "factions deviating from the shari'a."
著者
山中 由里子
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.8, pp.55-87, 1993-03-31

アレクサンドロス大王(前356年-前323年)の華やかで短い生涯は,古今東西の歴史家や文学者たちによって様々に描かれてきた。特に,史実にこだわらない民衆の自由な想像力の中で育った「アレクサンドロス物語」は,北アフリカ,ヨーロッパ,中近東,そして東南アジアにも伝わり,文字の形で残っているものだけでも,二十四ヶ国語,八十種以上の翻訳本,異本があるといわれている。イスラム世界においてアレクサンドロスはイスカングルと呼ばれ,また,コーランの「洞窟の章」に登場し,ゴグとマゴグの野蛮な民族を退治する英雄,ズ・ル・カルナイン(2本の角の人)としてよく知られている。アラブのアレクサンドロス伝説については,前嶋信次氏や蔀勇造氏の優れた研究があるが,ここでは同じ中東世界の中でもアラブとはまた少し違った展開をみせた,イランにおけるアレクサンドロス像の変遷について考察する。当時新進国家であったマケドニアの王子アレクサンドロスは二十歳で,父王フィリッポスの死の直後に即位し,紀元前334年に「報復戦争」と称して東方遠征に進発した。この遠征は紀元前330年,ペルセポリス破壊において一つの頂点を迎える。そして若い王はペルシア帝国全土を平定した上でさらにインダス河流域まで進むが,祖国への帰路,バビロンにて病死する。アレクサンドロスによって王朝を滅ぼされ,その精神的首都を破壊されたペルシア人,特にゾロアスター教徒たちは,アレクサンドロスの死後も彼に対する恨みを何世紀も抱き続けた。世界秩序を乱した西方からの侵略者に対するこの憎しみの感情は,ギリシア支配への反発やローマとの抗争と複雑に絡み合い,決して薄れることはなかった。ササン朝起源のゾロアスター教伝承を見ると,アレクサンドロスは悪の象徴アフリマンの使い,破壊者,そしてイラン人の仇敵として登場する。彼は,イランに災いをもたらす「悪」を代表する強力な一員として,完全にゾロアスター教の二元論的な世界の中に取り込まれている。しかし,いわゆる「アレクサンドロス・ロマンス」が西方からイランに伝わり,またイランのイスラム化が進むに従って,アレクサンドロスは次第に英雄として描かれるようになる。このイメージの変化の第一段階では,あの憎い敵であったはずのアレクサンドロスが,ペルシア王の息子であり,ダーラー(ダレイオス3世)の異母兄弟であり,ペルシアの王朝の正当な継承者であると見做されるようになる。現存する文献の中では,ディーナワリー(895/6没)の『長史』がこの話を最も早くに取り上げている。この説は,この頃には中東各地にすでに流布していた「アレクサンドロス物語」の主人公の出生に関するエピソードにヒントを得ている。アレクサンドリアで編纂されたというこの物語によるとアレクサンドロスは,エジプトの王ネクタネボスとアレクサンドロスの母オリンピアスの間に生まれた息子ということになっている。これをもとにペルシア人たちは,フィリッポスの娘がペルンア王に嫁いだが体臭のために嫌われ,身ごもったまま追い返された,という逸話を作り出し,偉大な世界征服者として知られるアレクサンドロスを自分達の祖先の一人にしてしまった。これは,イスラム化によってゾロアスター教の影が薄れ,かつてのゾロアスター教徒たちが抱いていたようなアレクサンドロスに対する恨みが忘れられていったために可能になったことであった。また,支配者の正統性を重んじるイランの「シーア派的」傾向の表れであるのかもしれない。フィルドウスィーの『シャー・ナーメ(王書)』(980-1010頃)の中にも同じ話が含まれている。アレクサンドロスは伝説的なカーヤーニー朝のダーラーブ,ダーラーに続く公正な王として描かれており,否定的なイメージはないようにみえる。しかし,フィルドウスィーの王書において,アレクサンドロスはルーム(ギリシア,ローマを指す)出身のキリスト教徒であるとされている。そしてこの作品の中では,富みを連想させるルームと,臆病者あるいは卑怯者の宗教とされるキリスト教は,敵視ないしは蔑視されている。またさらに,ホスロウ・パルヴィーズがルームのカイサルに送る手紙の中では,イランとルームの二つの王国の和解を妨げる「古い憎しみ」と「新しい憎しみ」は,アレクサンドロスが一部その責めを負うべきものであると書かれている。このような点を考慮すると,『シャー・ナーメ』においてアレクサンドロスが,国民的ヒーローとして完全に受け入れられているわけではないことがわかる。一見すると英雄伝説の主人公としての特徴を全て備え持っているが,過去の王朝の栄華を讃えるためにその王朝を滅ぼした張本人を導入するという根本的な矛盾が,その描写の中に見え隠れしている。アレクサンドロスのイメージは,12世紀の大詩人ニザーミーの『イスカングルナーメ(アレクサンドロスの書)』においてさらに一転している。1200年頃に書かれたこの作品は二部に分かれており,第一部『シャラフナーメ(栄誉の書)』はアレクサンドロスを偉大な王としてまた戦士として描いたものであり,第二部『イクバールナーメ(幸運の書)』は彼を賢人としてまた予言者の一人として讃えたものである。特に『シャラフナーメ』において彼は,神の命を受け「アブラハムの教え」の布教に努める戦士とされており,彼はイラン中の拝火教徒に聖戦を挑み,彼らの拝火殿を残らず破壊してしまう。彼による拝火殿の破壊は,全く正当な行為であるどころか,その偉業のひとつとされている。ニザーミーのアレクサンドロスはペルシアの王の息子ではなくフィリッポスの息子であり,さらに彼にはアブラハムまで逆上る家系が与えられている。彼のイラン支配の「正統性」を裏付けるのはペルンア王の血ではなく,宗教そのものであり,神である。ニザーミーはアレクサンドロスの遠征の物語を借りて,究極のイスラム共同体-「他民族国家を一人のカリフが一つのシャリーアのもとに統治するというウンマの理想的形態」(「ウンマ」『イスラム事典』中村広治郎)-を描こうとしたのではなかろうか。このようにイランの宗教書,歴史書,文学作品などの中に表れたアレクサンドロスのイメージというものは,時代の流れと共に大きく変容してきた。ササン朝から13世紀初めのモンゴル族征服の直前にいたるまでの千年の間に,イランにおけるアレクサンドロス像は,邪悪な破壊者から,イラン人の血を引いた正統な王の一人となり,さらにはイスラム的英雄となっていった。逆に言えば,イランの文学の中に表れるアレクサンドロス像の変化は,イランの各時代の宗教意識や民族意識の変化を反映しているともいえよう。まさに,「世界を映すアレクサンドロスの鏡」のように。
著者
三沢 伸生 Akcadag Goknur
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.23, pp.85-109, 2007-07-31

日本とイスラーム世界との関係史への関心が高まるにつれて、最初の日本人ムスリムが誰であるのかという問題にも注目が集まるようになってきている。幕末の開国以来、イスラーム世界に渡航する日本人、イスラーム世界から日本に来訪する人間が現れだした。こうした接触・交流から日本人でムスリムに改定した者が出てきたものと考える。しかしながら日本人のムスリム改宗に関する史料は乏しく、特定・検証作業は極めて困難である。現在、最初の日本人ムスリムとして言及されることが多いのは山田寅次郎である。しかしそれは完全なる誤りである。本稿で実証するように野田正太郎こそが、現在のところ諸史料によって確認することができる最初の日本人ムスリムである。管見の及ぶ限り、山田が最初の日本人ムスリムであるかもしれないと言及したのは、中田吉信氏である。その際に中田氏は1893年8月4日付け『毎日新聞』に掲載された「回々教日本に入らんとす」と題されたある西洋新聞の翻訳記事を主たる根拠とした。この記事には約2年間に及ぶイスタンブルでのコーラン研究を終えた、アブデュルハリルという名の日本人が日本へ帰国したので、今後に日本にイスラーム教が広まるかどうかが注目されると記されている。中田氏はこの記事から、従来最初の日本人ムスリムと言われていた山岡光太郎氏より前に、イスタンブルでムスリムになった日本人がおり、その頃にイスタンブル居住の日本人は山田寅次郎しかいないので、アブデュルハリルは山田以外にありえないと考えた。この仮説を補強するために、山田に関する評伝である『新月山田寅次郎』をもとに、山田が1892年4月にイスタンブルに入り、約1年4ヶ月で日本に一旦帰国した事実を拾い出した。しかしそれでも中田氏は直接証拠を発見できずに山田がアブデュルハリルであると同定するには至らず、仮説としてその可能性を提示するに留まった。しかしこの仮説の反響は大きかった。とりわけ戦前以来の著名な日本人ムスリムである小村不二男氏が、何ら確証を明示することなしに、この仮説を事実として著書に書き記してから、山田が最初の日本人ムスリムであることが定説のようになってしまった。しかし中田氏の仮説を検証してみると、誤りであることは明白である。第1にその当時イスタンブルに住んでいた日本人は山田だけではない。山田の来訪以前の1891年1月から「時事新報』記者の野田正太郎がイスタンブルに住んでいた。第2に山田の伝記には記載事実に混乱が見られ、日本の複数の新聞記事に依拠すれば、約2年後どころか山田はイスタンブルにわずか数ヶ月滞在して一旦日本に帰国していることがわかる。中田氏が考えるように山田がアブデュルハリルであると同定することは困難である。さらに日本・トルコの双方において様々な史料を渉猟した結果、最初の日本人ムスリムのアブデュルハリム(アブデュルハリルは誤り)は、中田氏の推測する山田ではなく、野田であると特定することができる。野田は自社の募集した「エルトゥールル号事件」のための巨額な義損金為替をオスマン朝に手渡しするために、69名の生存者とともに日本軍艦の比叡に便乗して1891年1月にイスタンブルに入った。そしてオスマン朝側が士官学校において日本語を教授しながらトルコ語を習得する日本人の逗留を望んだことから、野田はこの地に留まることとなった。野田は士官(当初2人、最終的には6人)に日本語を教えながら、トルコ語を習い、同時にオスマン史・イスラーム史・イスラーム教などを学習した。やがて如何なる理由からか不明であるが、1891年5月に野田は入信してムスリムとなり、アブデュルハリムの名を授けられた。この事実はイスタンブルの総理府オスマン文書館に保管される文書によって裏づけされる。またこの改宗は新聞・雑誌に掲載され、内外に広く知られることとなった。野田は日本語教育とトルコ語取得に励み、やがてコーランを学習するためにアラビア語を取得する必要性すら感じている。1892年4月に日本人同胞たる山田寅次郎がイスタンブルにやってきた。野田は公私にわたり山田を支援して、貿易業創始という彼の夢を手助けした。さらには自身の日本語教育において彼を短期的に助手として採用したものと考えられる。しかしながら如何なる理由からか後世の短い山田の自叙伝・友人の筆になる山田の評伝にも野田に関する言及が見られない。またこの自叙伝・評伝の記載事実にも混乱が見られ、充分に検証されなくてはならない。こうしたことが絡み合って山田と野田とが取り違えられることとなり、野田が忘却される一方で、山田に注目が集まる結果となったのである。1892年12月に野田は約2年間のイスタンブル滞在を打ち切って、欧米を見聞しながら1893年に日本に帰国した。帰国後は『時事新報』に復帰し、トルコに関係する随筆をいくつか書いたものの、いつしか退社してしまい、その名声も忘れられるようになった。さらに帰国後の彼の生活はムスリムとして賞賛されるものではなかった。新聞によれば彼は奢侈生活に浸り、その生活を続けるために2度の刑事事件にかかわった。晩年の詳細は不明であるが、野田は1904年4月27日に若くして没してしまった。
著者
沼田 彩誉子
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.28, pp.127-144, 2013-01-05

戦前・戦中期において、日本および日本占領下にあった満州・朝鮮半島に居住していたタタール人の多くは、戦後アメリカやトルコへと渡った。両国では2012年現在も、彼らや彼らの家族が暮らしている。本稿では、こうした極東出身のタタール人のうち、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ・ベイエリア(以下ベイエリア)へ移住した在米タタール人に焦点をあてる。聞き取り調査を中心に、戦前・戦中期日本での生活、戦後の極東地域からの移住、およびベイエリアにおける現況をまとめる。従前「在日タタール人」と呼称される彼らは、戦前・戦中期における日本の「回教政策」と深く関わる存在である。一例をあげれば、早稲田大学に保管される大日本回教協会寄託資料には、彼らに関する文書・写真資料が所蔵されている。しかしながら「在日タタール人」の多くが戦後、極東地域から移住したために、彼らの存在、あるいは彼らの所有する資料は、日本では長らく忘却されてきた。アメリカやトルコに暮らす極東出身のタタール人や彼らの家族への聞き取りにより、既存文書・写真の特定や新規資料発見が大いに期待される。関係者の逝去・高齢化が進むなか、戦前・戦中期に関わる聞き取りおよび写真や書簡など私文書の調査は、喫緊の課題である。このとき、戦前・戦中期における「回教政策」が独善的なものであった事実を忘れてはならない。そのため、先行研究の多くは、「在日タタール人」を「回教政策」の対象や道具として扱ってきた。しかしながら、戦前・戦中期の日本とイスラーム関係の新たな理解を目指すとき、当時の「在日タタール人」と日本との関係が必ずしも良好だったわけではないにしても、彼らの視点から改めて日本の「回教政策」を評価することが求められる。そのためには第一に、現在の状況を正しく把握・理解し、インフォーマントとの関係を慎重に構築することが不可欠である。本稿は、彼らの移住経験に着目しつつ、聞き取り・資料調査を通じてその歴史を見直す作業への、第一歩として位置づけられる。本稿で扱うデータは、2012年4月25日から5月7日にかけて筆者が行ったベイエリアでの調査に基づくものである。日本での生活や移住の経験、ベイエリアにおける在米タタール人の状況について、合計9名の関係者への聞き取りを中心とする、フィールドワークを行った。日本では、東京、名古屋、神戸、熊本がタタール人の主な居住地となり、組織や学校、モスク、印刷所などが設立された。タタール人の流入が始まった1920年代当初、クルバンガリーがコミュニティ形成のイニシアチブをとった。しかし1933年にイスハキーが来日すると多くのタタール人は彼のもとに集まり、東京ではクルバンガリー派とイスハキー派の対立が起こるようになった。イスハキー、クルバンガリーがともに離日した後は、イブラヒムがコミュニティの指導者とされた。日本の戦局悪化に伴い、タタール人の多くは軽井沢や有馬温泉へと疎開を強制された。モスクや学校が空襲の被害を免れたため、タタール語による教育やタタール人の集まりは戦後も継続された。しかし1953年のトルコ国籍付与に伴い、彼らの大部分はトルコやアメリカへと渡っていった。極東からベイエリアへの最初の移住は、1923年までさかのぼることができる。日本で羅紗の行商を行っていたタタール人の一部が、関東大震災で被災し、渡米したのである。しかし、戦前のアメリカ移住は少数で、移民の数が増加したのは、戦後であった。終戦後のアメリカへの移住は、大きく2つのパターンにわけることができる。すなわち、極東からアメリカへ直接移住した場合と、トルコでの生活を経て、アメリカへと移住した場合である。いずれの場合も、終戦後に始まった極東からの出移民は、1950年代から60年代に集中している。1917年のロシア革命を機とする避難民を第一世代とするなら、第二世代、すなわち日本、満州、朝鮮半島を出生地とする彼らの子どもたちが、親や兄弟、結婚相手とともに、あるいは単身でトルコやアメリカへと移住した。2012年現在、ベイエリアでは、移住経験を持つ60〜80歳代の第二世代、第三世代にあたる米生まれの30〜50歳代の子どもたち、第四世代にあたる20歳代以下の孫たちが暮らしている。ベイエリアでは1960年に、在米タタール人の組織として「アメリカン・トルコ・タタール・アソシエーション」(American Turko Tatar Association。以下ATTAと略)が設立された。2012年5月現在、ATTA全体では会費納入者、シニア、子どもを合計して263名の極東出身の在米タタール人とその家族がおり、このうち187名がベイエリアに居住している。ATTAを設立し、集まりの場ではタタール語での会話がなされていた第二世代に比べると、第三世代のタタール語習得率やタタールへの関心、集まりへの参加率には、差がみられる。第二世代の高齢化による世代交代が進む今、タタールの言語や文化の保持は重要な課題となっている。カリフォルニア州コルマのサイプレス・ローン記念公園には、ATTAが購入、管理する4か所のムスリム墓地がある。合計302の墓のうち、160は埋葬済み、142はすでに購入され、使用者が決まった状態である。1962年に亡くなった人物が、この墓地へ最初に埋葬された。在米タタール人に関する今後の課題は次の2点に集約される。(1)第二世代へのさらなる聞き取り調査、(2)個々人が所蔵する写真、書簡などの私文書資料の探索とそれら資料に関する情報の収集である。
著者
中野 さやか
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.59-98, 2012-07-15 (Released:2018-03-30)

In this article, I will focus on 97 singers whose biographies are recorded in Kitāb al-Aghānī, written by Abū al-Faraj al-Iṣfahānī. The aim is to analyze the parent-child and teacher-student relationships between the singers and the way in which the singers were connected with the courts of the Umayyad and Abbasid dynasties. In the first chapter, I will analyze the 97 singers appearing in the book according to the periods during which they lived and the social status they had, with reference to a list of the singers. Subsequently, I will attempt to identify a large faction of professional singers existing among the 97 singers. In the second chapter, I will analyze how this large group of singers was connected with the courts of the Umayyad dynasty and the Abbasid dynasty. Through this analysis, I would like to make clear the social role the singers took on and also the cultural continuity between the Umayyad court and the Abbasid court. In the third chapter, I will focus on 100 Songs, that were selected from those sung in the Abbasid court. Those songs were applied by the author, Abū al-Faraj al-Iṣfahānī, as the first criteria in selecting songs for Kitāb al-Aghānī. Here, it should be noted that 100 Songs includes lyrics written by singers whose individual biographies and anecdotes are not recorded in the book. A comparison between such “anonymous” singers and the large faction of major singers whose information is recorded in the book in detail will reveal the way in which people from the ninth century through the tenth century adopted and rejected information concerning the court.
著者
レヴェント シナン
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.26, pp.123-149, 2011-01-05

本論文の目的は、定期刊行物を資料として分析しながらトルコ共和国初期における、トルコのメディアにおける日本像を解明し、あわせて日土関係を解釈することにある。具体的には日土関係の転換点である1933年から第二次世界大戦が勃発した1939年までトルコ最大の発行部数を誇る日刊紙の一つである『ジュムフリエト』における日本関係記事(事件報・論説など)を検討した。その結果、特に知識人や論説委員が記名で寄稿した論説によると、当時のトルコにおいて日本に対して全く異なる二つの対立する論調の存在を解明することができた。第1はトルコが1923年の建国に際して帝国主義諸国家の支配から独立解放戦争で脱却したという政治イデオロギーに立脚しながら、帝国主義国家である日本によって侵略を受けた中国や東アジア諸国に同情する論調である。ユヌス・ナディ氏、ペヤミ・サファ氏やナディル・ナディ氏はその傾向にあった論説委員である。特に本紙の社説担当記者でもあるユヌス・ナディ氏は日本に対して激しい非難をし、日本の東アジアにおける侵略行動に反対していた。これに対して、第2はムハッレム・フェイズ・トガユ氏やアフメット・アガオグル氏などのパン・トルコ主義者である論説委員が日本の侵略行動を支持する論調である。特にアガオグル氏の論説は好意的な論調の最良の例である。彼は日本の侵略主義を西欧のと比べた上、日本の対外膨張政策を正当化する傾向があった。以上の分析を総括すると、論説委員による個人差はあっても『ジュムフリエト』紙は全体としては欧米のメディアとは異なり、日本に対して偏見予兆をもって編集方針をとることはなかった。すなわち日本に対して親日・反日双方論述によって、同時期の英仏のような反日、独伊のような親日一辺倒の世論形成を行っていなかった。その理由は当時のトルコの政情を反映している。1923年建国以来、トルコは外交より内政を重視し、国内の諸改革推進のために中立的な外交姿勢を堅持した。最終的に、1930年代に汎トルコ主義者らは日本や日本の大陸進出に対して親近感を持ったが、その一方、ケマリスト的なイデオロギーに近い人々は日本に対して批判的であったと言えよう。
著者
澤田 稔
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.3, pp.198-218, 1988-03-31

Four documents presented in this article are preserved in the Basbakanlik Osmanli Arsivi (BOA) in Istanbul. The classification and numbers of the documents are: (1): Hatt-i Humayun Tasnifi, No.56129 (2): ditto ,No.56206 (3): ditto ,No.56118 (4): ditto ,No.56210 According to the catalog kept in the reading room of BOA, the date of the four documents is 1204 A.H., imperial decrees (hatt-i humayun) written in the upper spaces of the documents (1)(3) are ascribed to Sultan Selim III, and as to kind of the documents, (1)(3) are telhis, (2) is pusula, (4) is takrir. We consider (1)(2)(3) to be written by a sadrazam, (4) was written by a Naksbendi seyh, named Seyyid Yahya. The documents are concerned with an Uzbek named Dost Muhammed Bahadir. He was originally from Kokand in Central Asia, and in the service of the ruler of Kokand, namely Narbuta Beg. He won fame for his activity in some battle fields, and had made pilgrimage to Mecca. Dost Muhammed again intended to make pilgrimage to Mecca, and departed from Kokand for Istanbul in Ramazan 1202 A.H.(1788 A.D.). But he gave up the idea of going on to Mecca after arriving in Istanbul, and wished to participate in an Ottoman war against infidels. He made petition to the Ottoman government for granting horses, guns, swords and traveling expenses to him and his four comrades. Seyyid Yahya who was a Naksbendi seyh of an Uzbek tekke (zaviye) near Sokollu Mehmed Pasa mosque at Sultanahmed district in Istanbul (BOA, Cevdet Tasnifi, Evkaf No.16241), wrote about the career of Dost Muhammed in a petition to the Ottoman sultan, probably Selim III. The Ottoman sultan instructed a pasa to send Dost Muhammed and his comrades to the battle field, giving them traveling expenses. Thus the four Ottoman documents not only relate the personal history of Dost Muhammed, but also show a function of an Uzbek tekke in Istanbul. The outline of the documents, Japanese translation, modern Turkish transcription and the Ottoman text are presented in this article.
著者
磯貝 健一
出版者
Japan Association for Middle East Studies (JAMES)
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.259-282, 2011-07-15 (Released:2018-03-30)

本稿は、2009年に廃止された旧国立ウズベキスタン諸民族文化・美術史博物館所蔵の7通のファトワー文書に依拠しながら、20世紀初頭にサマルカンド州の或るイスラーム法廷に持ち込まれた訴訟の顛末を詳細に跡付け、さらに、革命前の中央アジア・イスラーム法廷で採用された裁判システムにおけるムフティーの役割を解明しようとするものである。現存する中央アジアのファトワー文書の大半は、裁判の進行過程において当事者である原告ないし被告が自己に有利な判決を獲得するために、カーディーに提出したものである。ただし、ファトワー文書は関連する訴状、判決文、ないし、同一の裁判において発行された他のファトワー文書を伴わず、単一の文書として伝存する場合が殆どである。これに対し、本稿で取り扱う7通のファトワー文書は全て同じ裁判の審理過程において提出されたものであり、極めて貴重な事例であるといえる。また、7通の文書の内、3通は原告、残り4通は被告により提出されている。問題の訴訟は、Ustā Mawlām Bīrdīなる人物の相続人数名が、自分達が相続すべき財産を取り戻すため、共同相続人であるUstā Raḥmān Bīrdīを相手取り提起したものである。これらの文書からは、原告・被告の双方が、①既存の裁判の審理中に、被告が原告を相手取って提起した別件の訴訟の有効性、および、②被告による訴訟代理人任命の有効性、の二点において対立していたことが読み取れる。また、最後に提出された文書では、この訴訟が両当事者による和解をもって解決されたはずであるにもかかわらず、被告が一旦成立した和解の破棄を申し立てたことが記録される。これら7通の文書は少なくとも7名以上のムフティーによって作成されたが、内3名のムフティーは原告と被告の双方にファトワーを供給している。このことは、当時のムフティーが、適当な法学説を取捨選択しながらファトワーの内容を依頼者の意向に合致させようとしていたことを物語っている。
著者
宮澤 栄司
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.145-169, 2008-01-28 (Released:2018-03-30)

Circassians(Cerkes) were forced to migrate to Anatolia in the mid-19th century, when Russia completed its military conquest of the North Caucasus. The Uzunyayla plateau (Kayseri, Turkey) is one of the principal locations of refugee re-settlement. Circassians there tend to compete for prestige, partly due to contradictions between status differences among groups in the past and the socioeconomic standing of these groups in the present. Among Circassians in Uzunyayla, contested memories are produced along the line dividing two social groups: descendants of nobles and descendants of slaves. Those families who are of noble descent eagerly tell a version of history that enhances their own honour. The ways in which nobles employ a discourse of memory (hatira/hatzr) to control the production of historic knowledge can be termed the "politics of memory." This politics serves by not letting slave descendants give their own account of history freely. On the other hand, descendants of slaves produce favourable meanings by appropriating the discourse of those of noble descent as their own. They narrate counter-memories that provide them with a positive experience and a claim to social legitimacy. The memory politics of nobles is skilfully undermined. This may be seen as an exemplary case of the "practice of memory," an idea discussed by de Certeau.
著者
辻 明日香
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.31, no.2, pp.29-57, 2016-03-15 (Released:2018-03-30)

After the Islamic conquest, the landscape of Egypt underwent great changes. Arabization gradually advanced, and the Coptic language died out. However, the Islamization of Egypt, which was slower than that of other Middle Eastern areas, was never completed. This paper explores the little known history of the Coptic community in this period through an analysis of the names of the bishops and their sees of the Nile Delta; it seeks to determine which sees were occupied and which became extinct. Of the twenty-four bishoprics listed in the synod of 1086, ten were extinct and four were on the verge of extinction by the end of the twelfth century. In the thirteenth to the fourteenth century, a different situation emerged: Bishoprics were restored or newly created, mostly in the Gharbiya Province, the richest part of the Delta. The Coptic Church was still functioning in the Delta, as is also attested by the itinerary of Yuhanna al-Rabban, a Coptic saint who wandered in the Gharbiya from the late thirteenth to the early fourteenth centuries.
著者
三浦 徹
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.19, pp.45-74, 2003-09-30

日常的な約束のなかから、社会的な義務を伴った「契約」を切り出してくる基準線はどこにあるのだろうか?本稿は、ヨーロッパ、中国、東南アジアとの比較のなかで、中東・イスラム世界の契約のあり方を検討し、個人の結びつきの社会的位置づけを探る。オスマン朝時代には、イスラム法廷(カーディー法廷)の文書記録が膨大に残されているが、文書化され、証人を立てて、法廷に登記された契約のほとんどは、不動産と家族法に関係するものであった。両者は、当事者のみならず、親族や隣人を含む、永続的な権利関係に関わるため、文書化と登記を行うことによって、権利の侵害に対抗し、将来の紛争を防止しようという意図をもっていた。契約の登記には、第三者を証人としてたて、法廷の吏員やカーディーの署名も証人としての機能を果たした。また当事者(もしくは代理人)、各種の証人役が出廷し、公式の手数料のみならず、非公式の謝礼などの経費を必要とした。ここからしても、登記の目的は、単発の取引の保証ではなく、長期的な経済的および社会的な利害にあった。しかし、登記の効果は、紛争の抑止力の域をでるものではなかった。訴訟において、売買の証書は副次的な証拠にすぎず、決定打は証人の証言や当事者の宣誓、また有力者の調停であったからである。逆に、偽証や裁判官の買収によって不当な利益を得ることも可能であり、これを常套手段とするものもいた。形式的要件を重んじるイスラム法の原則が、一方では偽証を生み、他方では予想される結論を回避して当事者の合意できる裁決に導くための調停を促した。これに対して、動産の取引は、法廷台帳に登記されることはなく、当事者同士の口頭の約束ないしは覚え書きで行わたとみられる。コーランは、「当事者のその場での取引であれば文書を交わす必要はないが、売買の場合は証人をたてよ」(2:282)と述べているが、法学者は、市場などでの売買(物件と代金の同時交換)であれば文書契約の必要はないと解釈した。イスラム法が禁止する付帯条項付きの契約や利子付きの貸付を行うのであれば、むしろ契約を文書化しない方が得策であった。登記された契約(法廷文書)の外側には、口約束の取引、当事者の間での決済が拡がっていた。人々は、以上のような構造を弁えて、二種類の契約(現代法でいう約束と契約)を使い分けていた。この二つの世界に共通の仕掛けが、アッラー(神)であった。法廷での陳述、証言、宣誓はもちろん、日常的な約束の際にも「神かけて(ワッラーヒ)」というせりふが用いられ、神は、約束の保証人であった。法廷の世界と当事者の世界の違いは、証人の有無、すなわち第三者を介在させるか否かにある。当事者だけでなく、隣人や家族などをふくむ社会(共同社会)の利害に関わるときに、第三者を委嘱して、紛争を防止し、紛争の解決をはかった。それを担ったのが、法廷を舞台とした世界であった。国家は、カーディー法廷にせよ、マザーリム法廷にせよ、法廷の世界を維持することで、行政権力として、人々を取り込むことができた。換言すれば、不動産と家族の管理に関わることが、国家の存在理由のひとつだったのである。契約の難しさは、自由な意志をもった個人をいかに束ねるか、しかも、過去から未来という時間のなかでこれを結びつけることにある。この難題に対して、ヨーロッパでは普遍的な法、中東イスラム世界では「第三者」という存在、中国では「一心の合意」という仕掛けをつくりだした。マレー世界では、交易の場合でも親族関係や口頭の約束が結合の基盤となり、文書契約は発達しなかったが、19世紀以降イスラム法が家族法の領域に浸透し、イスラム法廷が家族の紛争調停の場となっている。
著者
中田 考
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.5, pp.281-308, 1990-03-31

The Sunnite jurisprudence defines the rbellion as "revolt against the ruler by force according to their ta'wil." Jurists come to this notion through their understanding of the wars following the death of the Prophet. Ibn Taimiya says that they confound wars of three different categories, i.e., Abu Bakr's wars against the Apostates, the Civil wars, and 'Ali's wars against the Kharijite, and consequently they consider all of them revolts against the ruler, and that subjugating them is obligatory, if they persist. Ibn Taimiya criticizes this conception, and says that the apostates and Kharijite must be subjugated, but as to civil wars, withdrawal from them is better. According to Ibn Taimiya, jurists' idea of "rebellion" stems from this confusion, and it is supposed to be treated as a civil war from which muslims had better abstain. Ibn Taimiya does not only criticize jurists, but also presents his alternative, which is "deviation from the shari'a," namely, muslims must fight not "rebels against a certain ruler," but "factions deviating from the shari'a."
著者
三沢 伸生 大澤 広嗣
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.28, pp.107-126, 2013-01-05

近年になって、「回教政策」をはじめとして、長らく学界で取り上げることがなかった戦前・戦中期における日本とイスラーム世界との関係についての研究が進んできている。第1に「回教政策」やイスラーム研究の中心人物にかかわる研究、第2に第1と同じく関係団体や研究機関にかかわる研究、第3に日本社会における反響、第4に在日タタール人など在日イスラーム教徒や日本とイスラーム世界との関係にかかわる研究である。このなかで第3の日本社会における反響の研究が遅れている。社会科学一般で用いられているようにメディア研究を進めていくことが必要である。代表的日刊新聞に比べて仏教系日刊新聞『中外日報』にはイスラーム関係の記事が多く所収される。現在、1937年から1945年の同紙に所収されるイスラーム関係記事のデータベース化を進めており、本稿ではその一部を紹介しながら、当時の日本社会におけるイスラーム認識の振幅の一例を示す。
著者
松山 洋平
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.145-159, 2013-07-15 (Released:2018-03-30)

The recent few decades have seen a growing number of studies on Māturīdism. At the same time, revision and publication of writings of Māturīdītes are proceeding apace. This study reconsiders past and present studies regarding Māturīdism and measures their scope and possible applications. Māturīdism can be helpful in four categories of applied research. First, Māturīdism should be reconsidered as a representative of the rationalistic tide in Sunnī theology. Therefore, it could lead to the societal cultivation of common ethics that can be shared with non-Muslims who do not accept the same revelatory values that Muslims do. Second, studies in Māturīdism may be applied to examine the internal and theoretical correlations between a legal madhhab and theological school, because Māturīdism is strongly connected to the Ḥanafī school of law. Third, studies on Māturīdism would be useful for reconsideration of the expansion process of Islam and development of thoughts in respective areas. Finally, Māturīdism may be an undeniable factor in contemporary activities and issues, e.g., in da‘wah activities in non-Muslim countries, and in the theological disputes between Salafism and traditional Sunnī regime, i.e., Ash‘arī-Māturīdism. Studies of Māturīdism may enrich the research perspectives of Islamic thought and Sunnī speculative theology, adding a new element to the ongoing discussion of contemporary issues.
著者
Taslaman Caner
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.22, pp.77-101, 2007-03-20

本稿では、「テロterror」と「ジハードjihad」という2つの言葉がいかに誤った用いられ方をしているかを示し、そこでのレトリックが、異なる立場の人々の間の意思疎通の形成を阻害している事実を明らかにする。ここでの「レトリック」の意味は、主に政治的な目的に資するために、言葉を恣意的に用いることをいう。そもそも「権力」は、言葉の使い方を規程することを通じて、その力を行使する。そのゆえ、ここでは、言葉の使い方に現れるこの現象を、哲学的な観点から考察する。戦争に対するコーランの考え方については、倫理的な観点から考察する。コーランからえられるいくつかの重要な原則を提示する。また、同じく、個人的利益、誤解、伝統の影響、政治的な必要性などが、コーランを誤解させ、誤った解釈に導く原因となってきたこと、また、ハディースやファタワーによって覆されてきたことを示す。加えて、世界平和のために哲学が果たすべき役割についても、言及する。
著者
小松 香織
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.5, pp.113-172, 1990-03-31

オスマン帝国軍艦エルトゥールル号は、スルタン。アブデュル・ハミト2世の命により1890年日本に来航したが、帰路熊野灘で暴風雨のため遭難し多数の犠牲者を出した。この悲劇的な事件は、これまで日土交渉史の文脈の中で繰り返し語られてきた。本稿は、この事件の百周年を契機に、従来とは別の視点から捉え直そうと試みたものである。第1章では、トルコ海軍文書館の史料に基づき、エルトゥールル号派遣計画の立案から遭難に至るまでの経緯を整理し、事実関係をできるだけ明らかにするとともに、いくつかの問題点を指摘した。第2章では、背景となった19世紀末のオスマン帝国をめぐる国際関係、特にアブデュル・ハミト2世の外交政策を分析し、その結果をふまえてエルトゥールル号派遣の持つ歴史的意味を考察した。なお、詳しくは拙稿「アブデュル・ハミト2世と19世紀末のオスマン帝国-エルトゥールル号事件を中心に-」(『史学雑誌』第98編第9号40-82頁)をご参照いただきたい。
著者
馬場 多聞
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.27, pp.1-28, 2011-07-15

Yemen, which was ruled by the Rasulids (A.H. 626-858 [1228-1454]), is located in a key position for Indian Ocean trade, and was famous for its agricultural productivity. However, we don't know details about Yemen under the Rasulidss during the 13th century, except for the port of Aden. In this paper, I analyzed the feature of regions in Yemen based on a new historical source, which was entitled Nur al-Ma'arif Nuzum wa Qawanin wa A'raf al-Yaman fi al-'Ahd al-Muzaffari al-Warif and included records of a supply of cooking ingredients in the Rasulid Court. Through this examination, I demonstrated the details of economic activities, such as special products of various regions and their distribution in Yemen. At first, I extracted cooking ingredients that contained information relating to the supply origin, and I analyzed the frequency of the products supply origin and destination by using numerical data. Hence, I discovered that the ports of Aden and Zabid acted as trade centers for various products. In addition, I classified these supply origins into four regions, Tihama, the Southern Mountain Region, Aden and its periphery, and the Northern Mountain Region, and discovered their specialties. Tihama and the Southern Mountain Region had special products according to their climatic conditions. Aden acted as the center for various types of merchandise from the Indian Ocean. On the other hand, the Northern Mountain Region was rarely mentioned in this source due to geographical and political reasons.