- 著者
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鶴岡 賀雄
- 出版者
- 日本宗教学会
- 雑誌
- 宗教研究 (ISSN:03873293)
- 巻号頁・発行日
- vol.81, no.4, pp.849-869, 2008
本稿は、西欧キリスト教史の中で「行」というべきものがどのように実践され、その際「身体」がどのように位置付けられてきたかを、おおきなパースペクティブで通覧することを目指す。まず「行(修行)」という発想自体が西欧のキリスト教では希薄なことを語彙の観点から指摘する。これは古代以来の西欧の人間観において心身二元論的発想が強固であることに基づくが、神の受肉の教義を核心に据えるキリスト教は人間が身体をもつことを肯定的に捉えていることを確認する。ついでおもに中世・近世の修道生活において「行」に相当する実践の諸相を概観する。その際、身体に対してこれを、(1)「否定的に評価し能動的に関わる」側面、(2)「肯定的に評価し能動的に関わる」側面、(3)「否定的に評価し受動的に関わる」側面、(4)「肯定的に評価し受動的に関わる」側面に操作的に区分し、それぞれについておもに近世初期スペインの修道者たちの実践を例に検討する。おわりに、従来あまり注目されてこなかった上記(4)の側面、すなわち修道者に内から感じられる身体性ではなく、他者から「見られるもの」としての身体性の意義について若干の展望を述べる。