著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.25, pp.119-143, 2008-03

大国による単独支配ではなく、複数国家間の勢力均衡あるいは国際協調を好むのはヨーロッパの伝統であった。しかしながら均衡を望ましいとするこうした傾向が、20世紀のヨーロッパにわずか20年の間隔で二個の世界戦争を発生させた。本稿は「均衡」追及の問題性の一例として、第一次大戦終了時におけるイギリスの政策と、それが現実にいかなる問題を惹き起こすことになったかということについて考察する。 第一次大戦中帝政ロシアは崩壊し、代わって臨時政府が、その後にはボリシェヴィキの政府が出現した。イギリスは当初、協商国としてのロシアの復活を試みるが、まもなくそれを断念してボリシェヴィキとの取引を始める。これが1920年には結局イギリスによる、ボリシェヴィキ政府承認につながるのである。 敵対関係よりは強調が、対立よりは和解のほうが望ましいとする感情は理解できるものであるが、このような協調を求めて始まった英ロの接近はロシアに隣接する諸国に深刻な打撃を与えた。ボリシェヴィキは、バルト諸国、ベラルシ、あるいはウクライナをロシアの国内問題として承認することをイギリスに要求し、後者はそれを承認したからである。ポーランドに関してもイギリスは、ロシアとの間で同様な取引を行うつもりであった。しかしながらポーランドはそのような取引によって自国の運命が決せられることを拒否して、ボリシェヴィキとの戦争に突入するのである。 ポーランドは首都ワルシャワをソヴィエト軍によって脅かされながら、辛うじてこれを撃退することに成功して勝利を収める。1920 年夏のこの戦いにポーランドが勝利したことによって、いわゆるヴェルサイユ体制が確定する。ヴェルサイユ体制とは具体的には、ポーランドの存在そのものであった。この体制を守ることが、イギリス、フランスに課せられた国際的な義務であったにもかかわらず、英仏両国は、ドイツにたいしてまたロシアにたいして無原則な妥協を繰り返してく。 そもそも戦間期とよばれる一時代が存在したこと、そしてそれはなぜわずか20 年で終了しなければならなかったのか。それは、英仏等のいわゆる大国が、勢力の均衡を求めることに急であり、第一次大戦後の国際体制であるヴェルサイユ体制を擁護しなかったこと、ポーランドが代表するような小国の権利を守ろうとしなかったところに原因がある。1.はじめに2.ポーランドの分割とロシア3.ボリシェヴィキとポーランド分割無効宣言4.ポーランド問題とイギリスの政策5.イギリスとボリシェヴィキ・ロシア6.ソヴィエト軍のポーランド侵略開始7.「ヴィスワの奇跡」8.まとめとして

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こんな論文どうですか? ヴェルサイユ体制下のイギリス勢力均衡とポーランド(松川 克彦),2008 https://t.co/feNLk8W9jL 大国による単独支配ではなく、複数国家間の勢力均衡あるいは国際協調を好むのはヨーロッパの伝統であった。し…

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