著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.30, pp.85-122, 2013-03

津田仙(1837-1908)は、明治期においてキリスト教と深い関わりをもった農学者である。その事績は多方面にわたり、農産物の栽培・販売・輸入を手がけ、「学農社」を創設して、農業書籍や『農業雑誌』などの出版事業をはじめ、多くの農業活動を行なっている。その一方でキリスト教との関わりも深く、キリスト教精神に基づく学校の設立に関係している。 これまでの研究では、津田の農学者としての側面とキリスト教徒としての側面が、どのように結びついているのかという点は、あまり説明されてこなかった。本稿は津田の啓蒙活動を通して、農業とキリスト教の結びつきを明らかにした。 津田は農業改良や農業教育の実践、さらに盲唖教育や女子教育をはじめとする学校教育への理解と協力など、多方面の活動を行なっているが、それらはすべて伝統と偏見を打破する啓蒙活動であったといえる。しかもその啓蒙活動は国家や政府の支援に依らない「民間」活動であった。津田の農業における 啓蒙活動は、官僚化に対する抵抗という側面をもっていた。津田にとって国家や政府の支援に代わるも のがキリスト教(プロテスタント)であり、それが官僚化への抵抗と結びついた。 津田の場合、農業の科学的根拠やキリスト教の教理に関する造詣は深いものではない。しかし津田は啓蒙を重視しているので、難しい学術的な原理をできるだけ平易に説明し、簡明な言語によって農民に 知識を伝え、農山漁村の振興の助けとなることを重視する。津田がめざすのは、農民が自立して、営利的ないし合理的な経済生活を営めるようにすることである。それを達成するには、農民における営利性の自覚が必要である。この自覚は、津田によればキリスト教によってこそ導かれる。 津田の啓蒙活動をきっかけに、地域の特産品が生まれている。たとえば山梨県の葡萄栽培や葡萄酒製造であり、大阪・泉州の玉葱生産である。また農民の組織化にも成功した地域があった。たとえば北海道の開拓地であり、長野県の松本農事協会である。この津田の啓蒙活動の影響は、国内だけでなく海外 にも及んだ。津田は学農社農学校と同様、キリスト教を創立の精神や指導方針に掲げる学校の設立に協力する。「東京盲唖学院」(現・筑波大学付属盲学校)、「海岸女学校」、「普連土女学校」(現・普連土学 園)、「耕教学舎」(現・青山学院大学)、そして娘の津田梅子(1864-1929)が創設した津田塾大学などであった。1 はじめに2 英語とキリスト教3 農業実践の端緒4 農業情報とキリスト教5 学農社の設立と農学校6 農業技術の普及―『農業雑誌』の刊行7 農業技術の定着―地域特産品の形成8 啓蒙活動と農民の組織化9 キリスト教精神と学校教育10 結びにかえて
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.23, pp.99-125, 2006-03

拙稿は1970年に締結され、オーデル・西ナイセの境界を戦後はじめて正式な国境として承認したポーランドと西ドイツ関係正常化基本条約、及び締結に至る経緯を扱う。この条約はポーランドにとってのみならず、ヨーロッパ全体の安定のためにも不可欠の条約であったにも拘らず、その背後には歴史的な対立が存在したため締結までに25年という歳月を要している。 冷戦期、ドイツは東西に分裂していたにもかかわらず、ポーランドとの新しい国境を認めないという点では一致していた。二つの国家に分断されたとはいえ、ポーランドに対しては共同歩調をとり得たのである。東ドイツは、社会主義国としてポーランドと同じ陣営に属していながら、その望むところは戦前の旧国境の回復であった。しかし東ドイツは1950年にソ連からの圧力によって、この国境を承認せざるをえなかった。問題は西ドイツだった。ポーランドは、西ドイツからの承認が得られない限り、自国の存立の基盤、安全の保障に支障があったのである。 敵対的な両国の関係に転機をもたらしたのは、新たに西ドイツ首相となったブラントであった。東側との和解を求めんとするブラントは1970年にワルシャワを訪問して、国境承認に関する条約に調印したが、その際ゲットーの跡の記念碑に詣で、そこにひざまずいたのである。ポーランド側にとって誠に好都合なジェスチュアであると思われたのであるが、同国はブラントのこの行為に困惑した。ひざまずいている写真を国内で報道することを一切許さなかった。 その理由は、直接にはブラント訪問の三年前、ポーランド社会主義政権が始めたユダヤ系ポーランド市民排斥の動きに抗議して学生、労働者がおこした反体制運動と関連している。ポーランドの共産党第一書記ゴムウカは、ブラントがこれらユダヤ人を支援するとの意図を持つのではないかと疑った。 また社会主義陣営内では一般国民に向けて、西ドイツとは即ち「アメリカ帝国主義の手先」であって、常に報復を企てている悪辣な国家であるとの宣伝を行っていた。ここでブラントがひざまずいた写真を公表するならば、従来の西ドイツに関する説明は、根拠が薄弱となることを認めなければならない。写真を公表しなかったのはそのためでもある。 ゴムウカは破綻しかかっている社会主義の経済、全体主義的な支配にたいする国民の不満をさらに覆い隠すためにも、真実を発表できなかったのである。しかし、発表しなかったことによっても政権は救えなかった。ブラントのこの行為は結局、社会主義専制体制の崩壊へとつながっていく。ポーランドを取り巻く列強の思惑、東ドイツとの関係に触れながら、以上の点を明らかにする。1.はじめに2.ポーランドの東西国境形成と列強3.オーデル・ナイセ境界と西ドイツ4.ゴムウカとウルブリヒトの反目5.ポーランド・西ドイツ関係正常化へ6.ブラント訪問の波紋7.まとめとして
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
pp.69-118, 2012-03

古在由直(1864.1934)は、明治期の日本農学を代表する研究者のひとりである。東京帝国大学農科大学教授となり、さらに農科大学学長に就任し、その後に東京帝国大学総長に就任する。その功績には顕著なものがあり、その評価は高い。しかしながら古在が足尾銅山鉱毒事件に関わったこと、わが国の大学で初めて停年制を実施したことなどは、大学教授職としての視点から、これまで評価がなされてこなかった。 本稿は古在の事績を再評価することによって、農科大学の課題と大学教授職の役割を考察する。ごく最近に至るまでわが国では、大学教授職は研究と教育に携わることに限定されてきたが、古在による農科大学の帝国大学への移管、足尾銅山鉱毒事件の調査、農芸化学の確立、農業研究教育機関の整備、停年制の実施、関東大震災後の対応などの事績は、今後の大学教授職の役割を考えるうえで示唆に富んでいる。 古在は京都での少年時代の勉学、駒場農学校でのケルネルの教えなどによって、科学的知識の獲得というよりも、科学的態度や科学的方法を学ぶ。これが古在の科学者精神の核となり、大学教授職に就任後もこの精神が生かされる。わが国の大学は科学的知識や西欧からの知識の摂取において、制度面での葛藤を繰り返したが、それと同時に閉鎖性という特徴を強めた。さらに大学教授市場の非流動性も進んだ。この過程で教授職については、研究教育という限定された面でしか語られなくなる。 古在は農科大学の移管にあたって、他の分科大学よりも劣る点は、大学教授職の人材不足であると語る。したがって教授職としての役割は、研究教育体制の整備であり、それによる人材養成であるという。停年制の実施も、この考え方に基づいたものであった。停年制は計画的人事を可能とするので、人材養成につながる。古在は足尾銅山鉱毒問題の土壌調査や政府の会議を通じて、科学は社会とのつながりが必要であることを痛感し、さらに科学のあり方と大学のあり方は密接に関わっていることを感じる。 しかし科学は「象牙の塔」の構築に多くの労力をはらうようになり、古在が強調した社会とのつながりを急激に失っていく。これは国際社会からの隔絶をも意味した。古在は学生に対しても、その人格修養につとめるように説いているが、人格修養は閉鎖的な場では困難である。科学は本質的に閉鎖性をもつものであるので、古在はそれに対して常に警鐘を鳴らしていた。 古在によれば、科学の形成、社会問題への取り組み、研究教育体制の整備は、それぞれ無関係のものではない。科学者精神の発揮という共通点をもつ。したがって大学教授職の役割を考える場合には、単に教育と研究という側面からではなく、社会とのつながり、研究教育体制の整備という側面からも考える必要がある。1 はじめに2 近代農学の摂取3 農科大学の設立4 帝国大学との関係5 足尾銅山鉱毒事件と大学6 農芸化学への寄与7 農業研究教育機関の整備8 研究教育体制と大学総長9 停年制の実施と人材養成10 研究教育体制の変容と教授職11 震災復興と学生対応12 結びにかえてー教授職とは
著者
福田 充男
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.27, pp.127-143, 2010-03

第三者割当増資では発行価格が市場価格よりもかなり低い水準に、つまりディスカウントされて設定されるのが通常ある。一見すると、このことによって割当を受けない既存株主は不利益を被るように見える。この研究で得られた実証結果によると、発行価格のディスカウントは割当を受ける投資家が負担する情報生産コストやリスクを反映して決まる。そして、大幅なディスカウントにもかかわらず、第三者割当増資のアナウンスメントに対して株式市場はプラスの超過リターンを示す。そして超過リターンは企業価値に関する好ましい情報を反映している。つまり、第三者割当増資によって既存株主が不利益を被るという証拠はない。
著者
岩本 康志 福井 唯嗣
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.28, pp.159-193, 2011-03

本稿は、医療・介護保険財政モデルの最新版(2009年9月版)を用いて、長期的な視野からの社会保障の公費負担の動向について分析する。今回のモデル改訂では、社会保障国民会議の医療・介護費用のシミュレーションの経済前提を取り入れるとともに、国民健康保険と全国健康保険協会管掌健康保険の加入者数を推計することで、これらの制度への公費負担を考慮に入れた。 社会保障国民会議による推計によれば、医療・介護費用に対する公費負担は、2007年度から2025年度までGDP比で1.8%増加する。本稿の分析では、2025年度以降も公費負担の増加がつづき、2050年度にかけてGDP比で2.3%(医療が1.25%、介護が1.05%)増加すると推計された。さらに、2050年度以降も約20年間にわたり、公費負担は増加を続ける。長期的視点にたった税制のあり方を検討する際には、このことを考慮に入れて、安定的な財源確保の手段を考えるべきである。 後期高齢者に重点的に公費が投入されていることから、将来の公費負担の伸び率は保険料の伸び率よりも高いことを今回の推計は示している。すでに混迷しつつある税による財源調達は、今後はさらに困難になることが懸念される。財源調達の重点を税から保険料に移す方向への改革も検討する必要がある。その際には、給付と負担の関係をより明確にし、国民の理解を得る制度上の工夫が必要である。医療・介護費用の事前積立はその工夫の一つである。
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.25, pp.119-143, 2008-03

大国による単独支配ではなく、複数国家間の勢力均衡あるいは国際協調を好むのはヨーロッパの伝統であった。しかしながら均衡を望ましいとするこうした傾向が、20世紀のヨーロッパにわずか20年の間隔で二個の世界戦争を発生させた。本稿は「均衡」追及の問題性の一例として、第一次大戦終了時におけるイギリスの政策と、それが現実にいかなる問題を惹き起こすことになったかということについて考察する。 第一次大戦中帝政ロシアは崩壊し、代わって臨時政府が、その後にはボリシェヴィキの政府が出現した。イギリスは当初、協商国としてのロシアの復活を試みるが、まもなくそれを断念してボリシェヴィキとの取引を始める。これが1920年には結局イギリスによる、ボリシェヴィキ政府承認につながるのである。 敵対関係よりは強調が、対立よりは和解のほうが望ましいとする感情は理解できるものであるが、このような協調を求めて始まった英ロの接近はロシアに隣接する諸国に深刻な打撃を与えた。ボリシェヴィキは、バルト諸国、ベラルシ、あるいはウクライナをロシアの国内問題として承認することをイギリスに要求し、後者はそれを承認したからである。ポーランドに関してもイギリスは、ロシアとの間で同様な取引を行うつもりであった。しかしながらポーランドはそのような取引によって自国の運命が決せられることを拒否して、ボリシェヴィキとの戦争に突入するのである。 ポーランドは首都ワルシャワをソヴィエト軍によって脅かされながら、辛うじてこれを撃退することに成功して勝利を収める。1920 年夏のこの戦いにポーランドが勝利したことによって、いわゆるヴェルサイユ体制が確定する。ヴェルサイユ体制とは具体的には、ポーランドの存在そのものであった。この体制を守ることが、イギリス、フランスに課せられた国際的な義務であったにもかかわらず、英仏両国は、ドイツにたいしてまたロシアにたいして無原則な妥協を繰り返してく。 そもそも戦間期とよばれる一時代が存在したこと、そしてそれはなぜわずか20 年で終了しなければならなかったのか。それは、英仏等のいわゆる大国が、勢力の均衡を求めることに急であり、第一次大戦後の国際体制であるヴェルサイユ体制を擁護しなかったこと、ポーランドが代表するような小国の権利を守ろうとしなかったところに原因がある。1.はじめに2.ポーランドの分割とロシア3.ボリシェヴィキとポーランド分割無効宣言4.ポーランド問題とイギリスの政策5.イギリスとボリシェヴィキ・ロシア6.ソヴィエト軍のポーランド侵略開始7.「ヴィスワの奇跡」8.まとめとして
著者
朱 立峰 寺町 信雄
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.28, pp.115-139, 2011-03

本論文は、関(2002)論文が開発・提案した付加価値指標・輸出高度化指標とその偏差値・任意の2国の対米輸出競合度という分析ツールを用いて、日中韓およびASEANの工業製品(およびIT関連製品)の雁行形態的な対米輸出構造について議論したものである。扱った期間は1999年-2007年である。工業製品における日中韓ASEANの雁行形態的な対米輸出構造を示す統計的な輸出高度化指標の偏差値の順位は、期間を通じて高い順に日本→韓国→ASEAN→中国と変わらない結果をえている。他方、IT関連製品における日中韓ASEANの雁行形態的な対米輸出構造に関連する偏差値も、同様の順位を示す結果をえている。しかしながら、年の経過とともに、中国の対米輸出規模が多額になるに伴い、日韓ASEANの中国との対米輸出競合度は大きな数値を示すようになり、特にIT関連製品においては、日韓ASEANと中国とは補完的な関係というよりは競合的な関係を強くしているという結果をえている。関(2002)論文は、主に日本と中国の1990年-2000年における工業製品(およびIT関連製品)の雁行形態的な対米輸出構造について分析を行なっている。工業製品については大筋われわれと同じ結論であるが、IT関連製品については異なる結論となっている。
著者
高原 秀介
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.26, pp.157-170, 2009-03

1.「民主化の推進」(1)ラテンアメリカから始動した「民主化の推進」(2)安全保障の観点から重視された「民主化の推進」2.「反帝国主義」(1)世紀転換期のアメリカとウィルソン(2)ウィルソンと「反帝国主義」3.「民族自決主義」(1)「14ヵ条」に見られる「民族自決主義」の真意(2)ウィルソンの「民族自決主義」のあいまいさ4.「単独行動主義」(1)ウィルソン外交に見られる「単独行動主義」おわりに