著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.249-272, 2014-03

山本五十六提督はアメリカ駐在武官も勤め、同国の実力を熟知していたが故に、アメリカとの間の戦争に反対であったといわれている。したがって日独伊三国同盟にも反対であった。しかしながら、日米関係が緊張してくると、アメリカ太平洋艦隊の基地真珠湾を攻撃する計画を作成、その計画実現に向けて強引な働きかけを行った。 これをみると、山本は果たして本当に平和を望んでいたのかどうかについて疑問が起こってくる。一方で平和を望みその実現に努力したと言われながら、実際にはアメリカとの戦争実現に向けて最大限の努力を行った人物でもある。 本論は山本が軍令部に提出した真珠湾攻撃の計画が実際にどのようにして採択されたのか。それは具体的にはいつのことなのか。またその際用兵の最高責任者、軍令部総長であった永野修身はどのような役割を果たしたのかについて言及する。これを通じて、もし山本の計画が存在しなければ、あるいはこれほどまでに計画実現に執着しなければアメリカとの戦争実現は困難だったのではないだろうかという点について論述する。 日米開戦原因については多くの研究の蓄積がある。しかしながら山本五十六の果たした役割についてはいまだに不明の部分が多いと考える。それが、従来あまり触れられることのなかった山本五十六の開戦責任について、この試論を書いた理由である。
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.249-272, 2014-03

山本五十六提督はアメリカ駐在武官も勤め、同国の実力を熟知していたが故に、アメリカとの間の戦争に反対であったといわれている。したがって日独伊三国同盟にも反対であった。しかしながら、日米関係が緊張してくると、アメリカ太平洋艦隊の基地真珠湾を攻撃する計画を作成、その計画実現に向けて強引な働きかけを行った。 これをみると、山本は果たして本当に平和を望んでいたのかどうかについて疑問が起こってくる。一方で平和を望みその実現に努力したと言われながら、実際にはアメリカとの戦争実現に向けて最大限の努力を行った人物でもある。 本論は山本が軍令部に提出した真珠湾攻撃の計画が実際にどのようにして採択されたのか。それは具体的にはいつのことなのか。またその際用兵の最高責任者、軍令部総長であった永野修身はどのような役割を果たしたのかについて言及する。これを通じて、もし山本の計画が存在しなければ、あるいはこれほどまでに計画実現に執着しなければアメリカとの戦争実現は困難だったのではないだろうかという点について論述する。 日米開戦原因については多くの研究の蓄積がある。しかしながら山本五十六の果たした役割についてはいまだに不明の部分が多いと考える。それが、従来あまり触れられることのなかった山本五十六の開戦責任について、この試論を書いた理由である。
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.23, pp.99-125, 2006-03

拙稿は1970年に締結され、オーデル・西ナイセの境界を戦後はじめて正式な国境として承認したポーランドと西ドイツ関係正常化基本条約、及び締結に至る経緯を扱う。この条約はポーランドにとってのみならず、ヨーロッパ全体の安定のためにも不可欠の条約であったにも拘らず、その背後には歴史的な対立が存在したため締結までに25年という歳月を要している。 冷戦期、ドイツは東西に分裂していたにもかかわらず、ポーランドとの新しい国境を認めないという点では一致していた。二つの国家に分断されたとはいえ、ポーランドに対しては共同歩調をとり得たのである。東ドイツは、社会主義国としてポーランドと同じ陣営に属していながら、その望むところは戦前の旧国境の回復であった。しかし東ドイツは1950年にソ連からの圧力によって、この国境を承認せざるをえなかった。問題は西ドイツだった。ポーランドは、西ドイツからの承認が得られない限り、自国の存立の基盤、安全の保障に支障があったのである。 敵対的な両国の関係に転機をもたらしたのは、新たに西ドイツ首相となったブラントであった。東側との和解を求めんとするブラントは1970年にワルシャワを訪問して、国境承認に関する条約に調印したが、その際ゲットーの跡の記念碑に詣で、そこにひざまずいたのである。ポーランド側にとって誠に好都合なジェスチュアであると思われたのであるが、同国はブラントのこの行為に困惑した。ひざまずいている写真を国内で報道することを一切許さなかった。 その理由は、直接にはブラント訪問の三年前、ポーランド社会主義政権が始めたユダヤ系ポーランド市民排斥の動きに抗議して学生、労働者がおこした反体制運動と関連している。ポーランドの共産党第一書記ゴムウカは、ブラントがこれらユダヤ人を支援するとの意図を持つのではないかと疑った。 また社会主義陣営内では一般国民に向けて、西ドイツとは即ち「アメリカ帝国主義の手先」であって、常に報復を企てている悪辣な国家であるとの宣伝を行っていた。ここでブラントがひざまずいた写真を公表するならば、従来の西ドイツに関する説明は、根拠が薄弱となることを認めなければならない。写真を公表しなかったのはそのためでもある。 ゴムウカは破綻しかかっている社会主義の経済、全体主義的な支配にたいする国民の不満をさらに覆い隠すためにも、真実を発表できなかったのである。しかし、発表しなかったことによっても政権は救えなかった。ブラントのこの行為は結局、社会主義専制体制の崩壊へとつながっていく。ポーランドを取り巻く列強の思惑、東ドイツとの関係に触れながら、以上の点を明らかにする。1.はじめに2.ポーランドの東西国境形成と列強3.オーデル・ナイセ境界と西ドイツ4.ゴムウカとウルブリヒトの反目5.ポーランド・西ドイツ関係正常化へ6.ブラント訪問の波紋7.まとめとして
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.99-125, 2006-03

拙稿は1970年に締結され、オーデル・西ナイセの境界を戦後はじめて正式な国境として承認したポーランドと西ドイツ関係正常化基本条約、及び締結に至る経緯を扱う。この条約はポーランドにとってのみならず、ヨーロッパ全体の安定のためにも不可欠の条約であったにも拘らず、その背後には歴史的な対立が存在したため締結までに25年という歳月を要している。 冷戦期、ドイツは東西に分裂していたにもかかわらず、ポーランドとの新しい国境を認めないという点では一致していた。二つの国家に分断されたとはいえ、ポーランドに対しては共同歩調をとり得たのである。東ドイツは、社会主義国としてポーランドと同じ陣営に属していながら、その望むところは戦前の旧国境の回復であった。しかし東ドイツは1950年にソ連からの圧力によって、この国境を承認せざるをえなかった。問題は西ドイツだった。ポーランドは、西ドイツからの承認が得られない限り、自国の存立の基盤、安全の保障に支障があったのである。 敵対的な両国の関係に転機をもたらしたのは、新たに西ドイツ首相となったブラントであった。東側との和解を求めんとするブラントは1970年にワルシャワを訪問して、国境承認に関する条約に調印したが、その際ゲットーの跡の記念碑に詣で、そこにひざまずいたのである。ポーランド側にとって誠に好都合なジェスチュアであると思われたのであるが、同国はブラントのこの行為に困惑した。ひざまずいている写真を国内で報道することを一切許さなかった。 その理由は、直接にはブラント訪問の三年前、ポーランド社会主義政権が始めたユダヤ系ポーランド市民排斥の動きに抗議して学生、労働者がおこした反体制運動と関連している。ポーランドの共産党第一書記ゴムウカは、ブラントがこれらユダヤ人を支援するとの意図を持つのではないかと疑った。 また社会主義陣営内では一般国民に向けて、西ドイツとは即ち「アメリカ帝国主義の手先」であって、常に報復を企てている悪辣な国家であるとの宣伝を行っていた。ここでブラントがひざまずいた写真を公表するならば、従来の西ドイツに関する説明は、根拠が薄弱となることを認めなければならない。写真を公表しなかったのはそのためでもある。 ゴムウカは破綻しかかっている社会主義の経済、全体主義的な支配にたいする国民の不満をさらに覆い隠すためにも、真実を発表できなかったのである。しかし、発表しなかったことによっても政権は救えなかった。ブラントのこの行為は結局、社会主義専制体制の崩壊へとつながっていく。ポーランドを取り巻く列強の思惑、東ドイツとの関係に触れながら、以上の点を明らかにする。
著者
松川 克彦
出版者
JAPAN ASSOCIATION OF INTERNATIONAL RELATIONS
雑誌
国際政治 (ISSN:04542215)
巻号頁・発行日
vol.1991, no.96, pp.35-50,L7, 1991-03-30 (Released:2010-09-01)
参考文献数
69

Poland's struggle to build up her independence after the Armistice, had a strong influence on her own foreign policy making process during the interwar period.This struggle was against the common aim of Soviet Russia and Germany to undermine the existence of Poland, as set up under the Versailles Treaty. The armed strife on the east and west borders of Poland was closely interconnected. There was direct Russo-German military and economic co-operation which also extended to Lithuania. As the latter also had territorial differences with Poland, Lithuania chose to act, as an intermediary between Soviet Russia and Germany which had no common borders.Czechoslovakia played a similar role to Lithuania on the Polish southern border. Czechoslovakia kept good relations with Russia and Ukraine which was offered a base to prepare an anti-Polish campaign over East Galicia. Thus if Poland were to antagonize Lithuania and Czechoslovakia, it would upset Russo-German co-operation.Poland tried to establish closer relations with Latvia and Estonia to diminish Lithuanian influence as well as maintaining good relations with Hungary and Rumania in opposition to Czechoslovakia. Although all of these countries were created after the world war and were in a similar situation, they were unable to form a common front against the growing menaces from east and west. The struggle between Poland on one side and Lithuania and Czechoslovakia on the other, continued through the interwar period.In addition, Poland was offended by the Entente, especially by the U. K. which not only refused to help Poland during her war with Soviet Russia but also compelled Poland to accept harsh Russian ceasefire terms. Britain wished to conclude a commercial agreement with Russia to be followed by British recognition of the state of Russia. For this reason, Britain tried to stop the war between Poland and Soviet Russia and to confine Poland's border to the so-called Curzon Line, which was the predecessor of the Ribbentrop-Molotov Line. As France gradually leaned towards the British view point, Poland lost confidence in both countries.Lastly, this international situation widened the differences between the two main Polish political groups. Pilsudski, a leader of one of the groups, wanted to make Poland independent of foreign influence and regarded himself as the successor to traditional Polish patriots such as Mickiewicz and Kosciuszko. The leader of the second group, Dmowski, wanted to establish good relations with the U. K., France, Soviet Russia and Czechoslovakia in order to confront the German menace.When Dmowski's foreign policy, which was grounded on the Polish-French Alliance, lost credibility through lack of French support and the effects of the Geneva and Locarno conferences, which seriously threatened Polish security, Pilsudski took the emergency step of a coup d'état in May 1926. He had decisive influence on military and foreign affairs and his aims were pursued by the “colonel group” after his death.
著者
松川 克彦
出版者
一般財団法人 日本国際政治学会
雑誌
国際政治 (ISSN:04542215)
巻号頁・発行日
vol.1991, no.96, pp.35-50,L7, 1991

Poland's struggle to build up her independence after the Armistice, had a strong influence on her own foreign policy making process during the interwar period.<br>This struggle was against the common aim of Soviet Russia and Germany to undermine the existence of Poland, as set up under the Versailles Treaty. The armed strife on the east and west borders of Poland was closely interconnected. There was direct Russo-German military and economic co-operation which also extended to Lithuania. As the latter also had territorial differences with Poland, Lithuania chose to act, as an intermediary between Soviet Russia and Germany which had no common borders.<br>Czechoslovakia played a similar role to Lithuania on the Polish southern border. Czechoslovakia kept good relations with Russia and Ukraine which was offered a base to prepare an anti-Polish campaign over East Galicia. Thus if Poland were to antagonize Lithuania and Czechoslovakia, it would upset Russo-German co-operation.<br>Poland tried to establish closer relations with Latvia and Estonia to diminish Lithuanian influence as well as maintaining good relations with Hungary and Rumania in opposition to Czechoslovakia. Although all of these countries were created after the world war and were in a similar situation, they were unable to form a common front against the growing menaces from east and west. The struggle between Poland on one side and Lithuania and Czechoslovakia on the other, continued through the interwar period.<br>In addition, Poland was offended by the Entente, especially by the U. K. which not only refused to help Poland during her war with Soviet Russia but also compelled Poland to accept harsh Russian ceasefire terms. Britain wished to conclude a commercial agreement with Russia to be followed by British recognition of the state of Russia. For this reason, Britain tried to stop the war between Poland and Soviet Russia and to confine Poland's border to the so-called Curzon Line, which was the predecessor of the Ribbentrop-Molotov Line. As France gradually leaned towards the British view point, Poland lost confidence in both countries.<br>Lastly, this international situation widened the differences between the two main Polish political groups. Pilsudski, a leader of one of the groups, wanted to make Poland independent of foreign influence and regarded himself as the successor to traditional Polish patriots such as Mickiewicz and Kosciuszko. The leader of the second group, Dmowski, wanted to establish good relations with the U. K., France, Soviet Russia and Czechoslovakia in order to confront the German menace.<br>When Dmowski's foreign policy, which was grounded on the Polish-French Alliance, lost credibility through lack of French support and the effects of the Geneva and Locarno conferences, which seriously threatened Polish security, Pilsudski took the emergency step of a <i>coup d'&eacute;tat</i> in May 1926. He had decisive influence on military and foreign affairs and his aims were pursued by the &ldquo;colonel group&rdquo; after his death.
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
no.25, pp.119-143, 2008-03

大国による単独支配ではなく、複数国家間の勢力均衡あるいは国際協調を好むのはヨーロッパの伝統であった。しかしながら均衡を望ましいとするこうした傾向が、20世紀のヨーロッパにわずか20年の間隔で二個の世界戦争を発生させた。本稿は「均衡」追及の問題性の一例として、第一次大戦終了時におけるイギリスの政策と、それが現実にいかなる問題を惹き起こすことになったかということについて考察する。 第一次大戦中帝政ロシアは崩壊し、代わって臨時政府が、その後にはボリシェヴィキの政府が出現した。イギリスは当初、協商国としてのロシアの復活を試みるが、まもなくそれを断念してボリシェヴィキとの取引を始める。これが1920年には結局イギリスによる、ボリシェヴィキ政府承認につながるのである。 敵対関係よりは強調が、対立よりは和解のほうが望ましいとする感情は理解できるものであるが、このような協調を求めて始まった英ロの接近はロシアに隣接する諸国に深刻な打撃を与えた。ボリシェヴィキは、バルト諸国、ベラルシ、あるいはウクライナをロシアの国内問題として承認することをイギリスに要求し、後者はそれを承認したからである。ポーランドに関してもイギリスは、ロシアとの間で同様な取引を行うつもりであった。しかしながらポーランドはそのような取引によって自国の運命が決せられることを拒否して、ボリシェヴィキとの戦争に突入するのである。 ポーランドは首都ワルシャワをソヴィエト軍によって脅かされながら、辛うじてこれを撃退することに成功して勝利を収める。1920 年夏のこの戦いにポーランドが勝利したことによって、いわゆるヴェルサイユ体制が確定する。ヴェルサイユ体制とは具体的には、ポーランドの存在そのものであった。この体制を守ることが、イギリス、フランスに課せられた国際的な義務であったにもかかわらず、英仏両国は、ドイツにたいしてまたロシアにたいして無原則な妥協を繰り返してく。 そもそも戦間期とよばれる一時代が存在したこと、そしてそれはなぜわずか20 年で終了しなければならなかったのか。それは、英仏等のいわゆる大国が、勢力の均衡を求めることに急であり、第一次大戦後の国際体制であるヴェルサイユ体制を擁護しなかったこと、ポーランドが代表するような小国の権利を守ろうとしなかったところに原因がある。1.はじめに2.ポーランドの分割とロシア3.ボリシェヴィキとポーランド分割無効宣言4.ポーランド問題とイギリスの政策5.イギリスとボリシェヴィキ・ロシア6.ソヴィエト軍のポーランド侵略開始7.「ヴィスワの奇跡」8.まとめとして
著者
松川 克彦
出版者
一般財団法人 日本国際政治学会
雑誌
国際政治 (ISSN:04542215)
巻号頁・発行日
vol.1982, no.72, pp.71-84,L9, 1982

The author intended to make clear the reason Poland was defenceless during the years prior to the Second World War.<br>The then Minister of Foreign Affairs Beck believed that total war would never break out, because he regarded Hitler's territorial and political demands <i>vis &agrave; vis</i> Poland as only a bluff. Beck's policies to settle the disputes with Germany were as follows; 1) to reply to Hitler with the same bluff, 2) to maintain closer contact with Britain in order to restrain Hitler, 3) to control Polish public opinion in order to carry out 1) and 2).<br>But Beck's plan turned out to be ineffective by the end of April, 1939, because his above-mentioned fundamental intentions from 1) to 3) all turned out to be false. Still remaining in office, he stirred up Poland to make better preparation for the War, though it seems that for Poland not many choices remained.
著者
松川 克彦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 社会科学系列 (ISSN:02879719)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.249-272, 2014-03

山本五十六提督はアメリカ駐在武官も勤め、同国の実力を熟知していたが故に、アメリカとの間の戦争に反対であったといわれている。したがって日独伊三国同盟にも反対であった。しかしながら、日米関係が緊張してくると、アメリカ太平洋艦隊の基地真珠湾を攻撃する計画を作成、その計画実現に向けて強引な働きかけを行った。 これをみると、山本は果たして本当に平和を望んでいたのかどうかについて疑問が起こってくる。一方で平和を望みその実現に努力したと言われながら、実際にはアメリカとの戦争実現に向けて最大限の努力を行った人物でもある。 本論は山本が軍令部に提出した真珠湾攻撃の計画が実際にどのようにして採択されたのか。それは具体的にはいつのことなのか。またその際用兵の最高責任者、軍令部総長であった永野修身はどのような役割を果たしたのかについて言及する。これを通じて、もし山本の計画が存在しなければ、あるいはこれほどまでに計画実現に執着しなければアメリカとの戦争実現は困難だったのではないだろうかという点について論述する。 日米開戦原因については多くの研究の蓄積がある。しかしながら山本五十六の果たした役割についてはいまだに不明の部分が多いと考える。それが、従来あまり触れられることのなかった山本五十六の開戦責任について、この試論を書いた理由である。
著者
松川 克彦
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.79-83, 1984-12

本書の著者ヘルヴァルトは、一九三一年から第二次大戦の勃発する一九三九年までの八年間、主としてソヴェト・ロシア駐在のドイッ大使館に勤務。ディルクセン(Dirksen,H. von)、ナドルニ(Nadolny, R.)、シューレンブルグ(Schulenburg, F. von)という歴代の大使の下で書記官を勤め、次第に緊張を増していくヨーロッパの外交的中心となったモスクワにあって、劇的な展開をとげる独ソ関係の推移を身をもって体験した。しかし、開戦前の八月末には外務省をはなれて軍籍にはいり、一九四一年六月、独ソ戦開始後はケストリンク(Kostring, E.)将軍の副官として東部戦線に従軍したという経歴の持ち主である。第一章では生い立ち。第二章、外務省勤務。第三章モスクワ派遣等々、第二十三章終戦に至るまでの回想が記されている。一定のテーマに関する書物ではないので、以下では一九三九年春以後夏までの独ソ不可侵条約交渉について紹介したい。