- 著者
-
浅野 裕一
- 出版者
- 島根大学教育学部
- 雑誌
- 島根大学教育学部紀要 人文・社会科学 (ISSN:02872501)
- 巻号頁・発行日
- no.18, pp.p51-96, 1984-12
秦帝国は、商鞍・韓非系統の法術思想を統治原理としたが、秦が滅亡して漢帝国が成立するとともに、それまでの法術思想に代り、黄老道が政治思想の主導的地位に躍りでてくる。この時期、黄老道的統治を行った人物としては、曹参・陳平・汲黯などが著名であるが、彼等の政治的手腕は、主に地方の郡国を舞台に発揮されている。 そこで問題となるのは、漢の皇帝と重臣達の黄老道的統治との関係である。もし歴代の皇帝が、帝国の中枢に於て、黄老道とは全く相い容れぬ、秦帝国同様の皇帝観・統治観を保持していたと仮定すれば、皇帝の意向を無視して、臣下の側だけが一方的に黄老道的統治を実施する行為は、到底不可能であったろう。とすれば、漢初に於ける黄老道隆盛の背景には、秦の皇帝観とは異なる、漢独自の皇帝観の存在が予想される。 これまで、秦帝国と漢帝国、及び秦の皇帝支配と漢の皇帝支配とは、秦漢帝国ないしは古代帝国の名の下に一括され、とかく両者の同質性ばかりが強調されてきた。しかしそれでは、前記の時代思潮の転換を、全く説明できぬこととなろう。そこで小論では、黄老道が流行していた、高祖・恵帝・文帝・景帝と連なる時期の漢の皇帝観を、秦の皇帝観と対比することにより、両者の間に存在した本質的差異を明らかにしていきたい。