著者
小谷 充
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 (ISSN:24335355)
巻号頁・発行日
no.53, pp.75-86, 2020-02-17

本研究では, 庵野秀明監督作品『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年10月~ 96年3 月)のサブタイトルにおける明朝体表現を対象として, 組版の再現実験をもとにタイポグラフィの特質とそのコンテクストについて考察した。その結果, 使用書体の選択について, 市川崑作品の影響下における写植書体の印象に類似したデジタルフォントを選択したと結論付けた。第二に, 組版における調整について, ①長体と平体の使用, ②読点位置の調整, ③ 4 種の異なる用法を使い分ける異サイズ混植, ④「マティスUB」による異ウエイト混植の実態を明らかにし, 調整の意図に言及した。第三に,市川崑作品の影響について, 各話を作り進めながら「対処的な調整」から「新味の表現」を模索し, 第拾六話あたりに独自のスタイルを定型化する経時変化を確認した。
著者
太田 洋介 石野 陽子
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 教育科学, 人文・社会科学, 自然科学 (ISSN:18808581)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.89-103, 2010-12

近年、以前にも増して選択的夫婦別姓制度の導入への動きが高まっている。本研究では、苗字に関する態度と個人としてのアイデンティティ、家族の一員としてのアイデンティティ、家族一般に対する伝統的な価値観との関連を見ることにより、夫婦同姓が制度上規定されている現在における大学生時点での苗字の心理的な役割を検討した。研究Ⅰでは新しく苗字態度尺度の作成を試みた結果、「同姓他者への親近感」、「上位世代でのつながり感」、「愛情期待」、「苗字によるつながり認知」、「自分の苗字への愛着」の5因子からなる尺度が作成された。研究Ⅱでは家族一般に対する伝統的な価値観を測定する伝統的家族観尺度の作成を試みた結果、「伝統的性役割」、「累代的つながり」の2因子からなる尺度が作成された。研究Ⅲでは研究Ⅰの苗字態度尺度、多次元自我同一性尺度、家族アイデンティティ尺度、研究Ⅱの伝統的家族観尺度の相関を対象者全体、男性、女性において見ることにより、苗字の役割を検討した。男性では特に家族アイデンティティの形成に苗字の役割が、また女性では特に自己の同一性を形成しにくい際に苗字の役割が見出された。また男女共通に、個人が現在所属している家族の一員として存在しているというヨコのつながりの感覚に苗字の役割が見出された。さらに家族のタテのつながりに苗字が役割を果たしていることが見出された。
著者
中山 郁子 藤江 奏
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 人文・社会科学 (ISSN:02872501)
巻号頁・発行日
no.4, pp.51-67, 1970-12

偏食および極端な好き嫌いなど,食物に対する嗜好の問題が,我々の肉体的健康に直接関連があることはいうまでもないが,それのみではなく,その人の性格形成にも何らかの影響をおよぼしているであろうことは容易に推察される。たとえば、自殺をするような人や偏くつな人には偏食する人が多いといわれるのもそのようなことであろう。 このように食物の嗜好がその人の性格と何らかの関連性があるであろうと考えられているにもかかわらず,この面についての研究はなされていないのが現状である。従って,本報においては,この問題を取り上げ中学生を対象に男女の性別および年令別による嗜好の相異,および食物に対する嗜好傾向を調べ,同時に性格テストを実施してその嗜好との関連性について研究をおこなった。その結果,いくつかの興味ある知見を得たので報告する。
著者
北川 翼 諸岡 了介
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要. 教育科学, 人文・社会科学, 自然科学 = Memoirs of the Faculty of Education, Shimane University (ISSN:18808581)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.141-152, 2016-12

補習科とは、浪人生の教育支援のために、島根県・岡山県・香川県・宮崎県など西日本のいわゆる地方の県を中心に、高等学校に附設されてきた機関である。鳥取県では2013年まで同様の機関として専攻科が存在し、現在ではその後身としてNPO法人倉吉鴨水館が教育活動を行っている。本稿ではまず、文献資料・各校に対する質問紙調査・補習科卒科生に対するインタビュー調査の組み合わせから、これまであまり知られてこなかった補習科の歴史とその教育の現状を明らかにする。さらに、高等教育進学機会の地域間格差という課題に対して、従来の研究および国の教育政策では浪人段階の教育条件という契機の重要性が見逃されてきたことを指摘するとともに、補習科とは、そうした教育条件の地域間格差という現実に直面する中で地域の教育現場が続けてきた生徒支援策として、地域に根づいた教育文化のひとつと言いうるものであることを示す。
著者
福間 彰 駅田 省吾
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要. 自然科学 (ISSN:05869943)
巻号頁・発行日
no.14, pp.17-28, 1980-12-25

1971年末に現れた最初のマイクロコンピュータMCS・4以後約10年,各界に与えたマイクロコンピュータの衝撃は大きく,研究室を含む各職域へのパーソナルコンピュータの進出が著しい昨今である。計算機を利用する立場からいえぱ,べ一シックのような言語を理解し,ソフトウエアを学習するだけでも十分に広い分野での活用が期待できる。しかしながら,ひとたび自らの手でマイコンシステムの拡充や新しい周辺機器の接続等を考えた場合,インタフェースなどハードに関する基本的知識が必要となってくる。 一方,電子計算機の教科書には,基本的計算機の機能が記述されてはいるが,初心者が計算機の基本を真に理解するには机上の学習のみでなく体験学習が大切であり,理論と実際を結び付ける装置が必要となってくる。 また,マイクロプロセッサから出発したマイコン学習装置は種々市販もされているが,CPUの中身にまで踏込んだより基本的な学習教材は少ないようである。 ここでは後者の立場に立ち,現在,国民一般のものとなってきたコンピュータのしくみを,ハードの面からも理解できるよう,富崎新氏のATOM−8を起点とし,より広い用途に供しうるよう拡張した基本的計算機を設計製作したのでこれについて報告する。
著者
山本 眞一
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要. 人文・社会科学 (ISSN:02872501)
巻号頁・発行日
no.11, pp.23-29, 1977-12-25

生活の単位として,家族があり,血縁的・情愛的結合のもとに経済生活上の共同体として世帯を構成しているが,資本主義経済制度の発達に応じ彼等のもつ唯一の方法としての労働力の販売の実現が必要条件であり,それなくしては生活手段を持たないがゆえに飢える自由を意味する。このいわゆる二重の意味での自由な労働者は資本主義のもとにおける窮乏化の進行過程にあって,それは「資本が蓄積されるにつれて,労働者の状態は,彼の給与がどうあろうとも−高かろうと低かろうと−悪化せざるをえないということになる。最後に相対的過剰人口または産業予備軍をたえず蓄積の範囲および精力と均衡させる法則はヘファイストスの楔がプロメテウスを釘づけにしたよりも一層固く労働者を資本に釘づけにする。だから一方の極での富の蓄積は,その対極では,すなわち,自分自身の生産物を資本として生産する階級の側では,同時に貧困、労働苦,奴隷状態,無知,野生化および道徳的堕落,の蓄積である」とマルクス(K.Marx)がのべた窮乏化の貫徹の下におかれている。このいわゆる窮乏化の諸現象形態としての無知に関してみれば,知識の進歩についていけない状態としての相対的無知及び絶対的無知の蓄積があり、クチンスキー(J.Kuczynski)のいう「かってのギルドの徒弟や職人たちはすべて各自の手工業を学ぶほかに手工業の経営術も学んだのであった。ところが資本主義下の労働者たちは,その雇われている経営の内情についてはその全般を知り得る地位におかれていないし,しかもそういう地位からはますます遠ざけられつつある。」という形態での進行がある。それは今日資本の管理体制としての職務給の導入及びその細分,分断化に顕著にみられる所であるが,資本の剰余価値確保追求からなる必然的所産である。又,周知のように特殊な商品としての労働力を販売し,労働力の価格としての賃金をもって生活に要する生活財を購入する以外の方策を持たない彼等の上には相対的過剰人口の増大の下,賃金は労働力の価値以下への切り下げの圧力が貫徹する。現在も続く労働力の下降移動,最近特徴的といわれるパートタイマー,臨時工,日雇等顕著に証明される。それは労働者階級のおかれている以上のような状態にあって各々の家族一世帯間での競争,同様に家族内における,すなわち妻が,子供が「彼の生活時間を労働時間に転化させ,彼の妻子を資本のジャガノートの車輪のもとに投げ入れる」といわれる所の,すなわち夫の労働力と競争を余儀なくされ,一層賃金低下を加速させるということであり,結果として各々の労働者は労働力の販路,有利性を求めて個々的努力を志向する。それは精神的,肉体的諸能力の総体としての労働力を相対的に有利な立場に位置させようとする現象といえるであろう。その労働力の質的向上を促進するために有利な労働力販売条件を確保しようとする。では現実に彼の労働力の価値評価としての学歴が貧困としての賃金及び労働条件の格差とどのようにかかわっているのであろうか。又,一方で教育の機会均等が家計とどのようにかかわり就学保障という社会政策的な現実はどう位置づけられるか以下検討してみたい。 それはとりもなおさず前述した労働者家族の生活状態の経済的側面への考察といえよう。
著者
猿田 量
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要. 人文・社会科学 (ISSN:02872501)
巻号頁・発行日
vol.27, no.2, pp.29-34,

松江市の平浜八幡宮には興味ある絵馬がいくつか伝わっている。絵馬のより旧い形態を伝えているとみられる木製の馬像や法橋狩野永雲筆の『松に鷹図絵馬』などであるが、なかでも興味深いのは松平直政が寄進したと記録されている『鷹図絵馬(一対)』である。 この一対の絵馬は特異な特色を有する。左右一対をなすよう制作されること自体は、室町時代前後に黒毛の馬と白毛の馬を描いた絵馬を一対として奉納する習慣が成立して以来の通例、むしろ一原型としえるのであるが、左右の各面で横書き文字の列の方向を逆転させてまで対称性を意図するのはあまり類例を見ない。また年月日の記はあるが、絵馬奉納の目的である願い事についての文言は見出だせない。願いがひそかなものであったとしても、その詳細を避け『諸願』として記す、しばしば見られる形態さえとっていない。この絵馬に託された祈願は記す必要のないほど明瞭なのであろうか。あるいは隠されているのであろうか。さらに年記に言う寄進の時期は、寛永十五年の直政の出雲転封の翌々年であり、金箔張りの作品の制作期間を考慮すると松江入府そうそう発注されたと考えなければならない。そのような急ぎの寄進を促した理由があったとすればそれは何か。 以上の画面内部および寄進の時期をめぐる特徴から、この一対の絵馬の奉納動機は考察に値するであろう。以下、造形、記載された文言、顕著な対称性、鷹という画題の選択理由を検討し、できるかぎり奉納動機の推定を試みたい。
著者
稲浪 正充 栗山 智子 安部 美恵子
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要(人文・社会科学) (ISSN:02872501)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.35-50, 1994-12-25

われわれは,3年前から色彩と感情のテーマにとり組んできた。本論文では2つの調査を試みた。先行研究(稲浪,野口)で,色の重さ,暗さ,冷たさを追及したが,ここではこれら3種類の感情的意味を含んだ10種類の感情的意味を調べた。また,先行研究(稲浪,小松原)で大学生に行った笑い顔,怒り顔,泣き顔のぬり絵から喜び,怒り,悲しみの色を調査したが,ここでは笑い顔のぬり絵に限り,就学前幼児と老令者を対象に調査した。13;
著者
藤岡 正春
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要(教育科学) (ISSN:0287251X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.81-88, 1979-12-25

柔道の国際化に伴い、日本柔道は重量級のみならず軽量級の力も諸外国と接近し,全階級制覇は至難とされるようになった。第3回世界選手権に続き東京オリンピックにおいてもオランダのへ一シング選手(196㎝,120㎏)に敗れ,寝技の重要性と体力不足が大きく指摘された。以後、世界の柔道はパワーの柔道へ進むとともに,選手の大型化(オランダ・アドラー,218㎝,ソ連・チューリン,210㎝,共に140㎏)と国際審判規定の改正により,更にパワーのあるダイナミックな柔道が要求されるようになった。このような世界の柔道の趨勢の中で日本の柔道界は,体力養成と同時に外国選手向きの技として担ぐ技の修得が叫ばれ,力を入れて来た。13; 東京オリンピック前年(1963年秋)へ一シング選手が2ケ月間の天理大学での練習時に,1無名選手の小内刈に良く転んでいた。又オリンピック後の尼崎国際大会決勝戦で日本の加藤選手に同じく小内刈で技有を取られるのを見て以来,大型選手に対して最も有効な技は小内刈等の足技という確信を持つようになった。13; 嘉納杯は,東京オリンピック以来日本で初めての大きな国際大会てあり,この大会を分析することにより,今後の日本の柔道選手は,どのような技を修得しなければならないか,その手掛りを見付けだしたい。
著者
斎藤 重徳 大谷 和寿
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 教育科学 (ISSN:0287251X)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.p25-32, 1988-12

我々は,スポーツやトレーニングを行う場合,その前に必ずといっていいほどウォームアップ(Warm−up)を実施してからそれらの運動を行っている。ウォームアップの役割は,次に行う運動に対する生理的,心理的準傭である1)といわれている。そして,ウォームアップは最終的には運動実施者のパフォーマンスを促進するという結論に到達すると思われる。オゾーリン(Ozlin)は,"有機体のシステムは休んでいると確実に不活動な状態にあり,活動を開始してもすぐには有機体の機能的効率を高めることはできない。そこには高い生理学的効率を発揮するまで,特定の時間が必要である"といっている。実際にスポーツやトレーニングを行う前に,この状態に到達したり,アプローチすることがウォームアップの目的になるわけである。 ウォームアップに関する研究は,これまでに数多く報告されている。石河は,ウォームアップに関する従来の研究結果を紹介している。その報告に於て石河は,ウォームアップを本運動と関連した運動と関連しないものとに区分し,更に後者のうち運動によらないものを受動的ウォームアップとしている。そして関連ウォームアップの場合,効果のある場合とない場合が半々で,必ずしもウォームアップの効果がはっきりしているとはいえない。柔軟性では効果が期待されるが,これがパフォーマンスの向上につながっているとは限らないと記している。又,非関連ウォームアップについても効果が相半ばしている。そして,非関連ウォームアップのなかの受動的ウォームアップの手段として温水シャワー,入浴,ジアテルミー,冷水シャワー,冷水浴それにマッサージ等が行われており,その効果については,温水シャワー,入浴,冷水シャワー,冷水浴,ジアテルミーはマイナスの効果が報告され,ウォームアップとしては望ましくないとされている。又,マッサージは効果があるという報告を見ないと記している。 小川,阿久津は,ウォームアップの効果を身体柔軟度の変化から検討している。その結果,ウォームアップとして一般的に行われる程度の準備運動により,身体の柔軟性は著しく増大し,入浴による温熱刺激によっても柔軟性は向上したと報告している。 その他,飯塚は運動代謝の面から,日比は体温,筋温の変温の面により,さらに中原は中枢神経系の興奮レベルの面よりウォームアップの効果を認めているという報告がある。 運動を伴なうウォームアップに効果を認めた報告が多い。運動すれば体温の上昇がみられることは周知のとおりであり,パフォーマンス促進の一要素となっていると考えられる。ウォームアップに関するこれまでの研究報告にも,体温や筋温との面からその効果をみたものもあるが,運動場面における活動部位の深部温についての報告は知らない。そこで,我々は新しい試みとして,臨床で使用される深部温モニター用コアテンプを使って身体各部の皮膚からの深部温と表面温を測定し,比較,検討することによって運動を伴なうウォームアップが生体に及ぼす影響について基礎知識を得ることを目的とした。
著者
卜田 隆嗣
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 教育科学 (ISSN:0287251X)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.p9-15, 1989-07

このたび学習指導要領の改訂が決まった。音楽科に関してもさまざまな変更がみられるが,とりわけ教材面で,民族音楽を取り上げることになった点が注目される。そこでは,これまで常にそうであったように,音楽の「学習」とは何か,音楽を「学ぶ」というのはいったいどういうことなのか,という本質的な問題は棚上げにされたままである。たんに教材の内容を拡張すれば,それで音楽教育が改善される,と信じて疑わないような姿勢がそこに垣問みえる。そもそも音楽の「学習」なるものが成立し得るのだろうか。もし成立し得るとするならば,それはどのような視点からであろうか。 音楽を「学ぶ」と言った場合,当然のことながら,誰が,何を,いかにして学ぶのか,が問題となるはずである。誰が,という問題は,とりあえずここでは問わないでおこう。基本的には,いかなる社会であってもその社会の成員はすべて,なんらかの形で音に関わるに違いないからである。それでは,「音楽の学習」とは,何をいかにして学ぶことなのだろうか。何を学ぶか,という問いは,一見して自明な問いのように思われるが,実際にはこの部分を暖昧なままにしている場合が多い。 たとえば,われわれが数学を学ぶのは,たんに四則演算の能力を獲得するとか,ケーレー・ハミルトンの公式を使いこなせるようになるとかいった目的のためだけではない。こうしたことは,枝葉末節とまでは言えないにしても,少なくとも最終目標ではない。むしろ学ぶべきことは,この人間が積み上げてきた学問の体系そのものであり,数学の体系をとおして人間がどのように世界をとらえてきたかを理解することなのである1)。同様に,音楽についても,視唱ができるようになるとか,移調ができるようになるとかいった能力・技術を習得することは最終目標ではない。音表現という人間の営みをとおして,どのように世界をとらえ,解釈しているかを知ることが重要なのである。したがって,いかに「学ぷ」か,についても,たんに技術的な習得のレベルを超えて,どう世界をとらえていくのか,という点が問題にされなければならない。 このようなものとしての音表現のあり方を解きあかそうとするのが音楽学の一つの役割である以上,音楽教育学は音楽学の中に合まれる,あるいはかなりの部分が音楽学と重なりあうことになる。この点をもう少しはっきりさせるために有効なのは,音楽学の領域でどのように研究対象をとらえてきたかをふりかえることである。とりわけ,当初から音表現に関わる人間の営みを広く全体的にとらえる方向に向かってきた民族音楽学の分野は,重要である。特に,1960年代にこの分野で導入された行動科学的視点は,音楽教育学に深い関連をもつものである(徳丸1970a:126参照)。この時期を代表するアラン・P・メリアム(MERRIAM)の主著『音楽人類学』も,行動主義的な立場,あるいは行動主義の音楽研究への適用がその大きな特色となっている。以下では,彼の著作にみられる,音楽研究のためのモデルを考察し,そこで学習がどのように位置づけられているかを検討することをとおして,音楽の学習とは何か,を考えたい。
著者
浅野 裕一
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 人文・社会科学 (ISSN:02872501)
巻号頁・発行日
no.18, pp.p51-96, 1984-12

秦帝国は、商鞍・韓非系統の法術思想を統治原理としたが、秦が滅亡して漢帝国が成立するとともに、それまでの法術思想に代り、黄老道が政治思想の主導的地位に躍りでてくる。この時期、黄老道的統治を行った人物としては、曹参・陳平・汲黯などが著名であるが、彼等の政治的手腕は、主に地方の郡国を舞台に発揮されている。 そこで問題となるのは、漢の皇帝と重臣達の黄老道的統治との関係である。もし歴代の皇帝が、帝国の中枢に於て、黄老道とは全く相い容れぬ、秦帝国同様の皇帝観・統治観を保持していたと仮定すれば、皇帝の意向を無視して、臣下の側だけが一方的に黄老道的統治を実施する行為は、到底不可能であったろう。とすれば、漢初に於ける黄老道隆盛の背景には、秦の皇帝観とは異なる、漢独自の皇帝観の存在が予想される。 これまで、秦帝国と漢帝国、及び秦の皇帝支配と漢の皇帝支配とは、秦漢帝国ないしは古代帝国の名の下に一括され、とかく両者の同質性ばかりが強調されてきた。しかしそれでは、前記の時代思潮の転換を、全く説明できぬこととなろう。そこで小論では、黄老道が流行していた、高祖・恵帝・文帝・景帝と連なる時期の漢の皇帝観を、秦の皇帝観と対比することにより、両者の間に存在した本質的差異を明らかにしていきたい。
著者
足立 悦男
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要. 教育科学 (ISSN:0287251X)
巻号頁・発行日
no.36, pp.1-20, 2002-12-01

本研究は、「異化の詩教育学」という仮説的な理論の継続研究である。本稿では、前稿「教材編成の理論と方法」(『島根大学教育学部紀要』第34巻)で提示した教材類型の中で、思想型の詩を教材化したときの授業モデル(受容指導)について考察する。思想型の詩とは、読者・学習者に対して、詩の方法によって新しいものの見方・考え方を提示する作品である。全く新しい見方・考え方というのでなくても、子どもたちに対して、慣習的な見方・考え方の見直しを迫るような詩も、この思想型の作品である。子もたちの慣習的な見方・考え方に対して、変容を迫るような詩は、「異化の世界を作りだす詩教育」のすぐれた詩教材である。そして、思想型の詩教材の裾野を広くするためには、思想の概念をできるだけ広くしておく必要がある。と同時に、思想型の詩教材は、これまで研究してきた話者型、存在型の詩と同様に、すぐれた詩の方法(とらえ方)・詩の技法(あらわし方)を内在していなくてはならない。詩の世界に、思想だけをみていく、詩教育におけるテーマ主義(作品のテーマだけで詩教材の価値を決めようとする傾向)を避けなくてはならない、と考えるからである。本研究で取り上げる「魚だって人間なんだ」(草野心平)、「はじめて小鳥がとんだとき」(原田直友)、「チョウチョウ」「アリ」など(まど・みちお)の詩は、いずれも以上のような条件を満たす、すぐれた思想型の作品である。そして、取り上げる授業例は、詩の世界をとおして、アイデンティティ、自立、いのち、などの思想の問題を、子どもたちに発見させていく実践である。本稿で取り上げる事例は文芸研(文芸教育研究協議会)の実践である。文芸研は人間観・世界観を育てる文芸教育を研究課題としているので、思想型のすぐれた実践が多い。
著者
三宅 理子
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 (ISSN:18808581)
巻号頁・発行日
no.43, pp.79-85, 2009-12-25

心理療法の過程で水イメージの重要性について考えさせられる機会は多い。本研究においては,「水のある風景」の描画とY-G性格検査との関連を検討した。水辺の種類を要因として,Y-G性格検査の12尺度得点,6因子得点について一元配置の分散分析を行った結果,協調性のなさの得点が海描画群に比べ雨描画群が高いことが確認された。さらに,絵がどのように描かれているかによって「水の形態」を「開」「流」「閉」「器」「滴」の5つに分類し分析に用いた結果,協調性のなさが「開」に比べ,「器」「滴」が高く,一般的活動性は「流」に比べて「滴」が低く,主導性得点は「閉」に比べて「器」が低いことを確認した。13;13; 以前,箱庭で表現される「水のある風景」とY-G性格検査との関連を検討したが(三宅,2004),それとはかなり異なる結果が得られた。その理由としては,まず,今回は箱庭では表現することが難しい雨の風景や生活に関わる水が多く表現されたことが挙げられるであろう。また,砂を掘ることによって表現する箱庭での水と,自ら色を塗ることによって作り出す描画における水とでは,その表現の意味合いがかなり違うのではないかということが示唆された。13;
著者
田中 俊男
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要. 教育科学, 人文・社会科学, 自然科学 (ISSN:18808581)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.94-85, 2015-02

本稿では、小学校における長期安定教材であり、国民的童話文学とも言うべき新美南吉「ごんぎつね」を取り上げる。「ごんぎつね」本文の問題に触れた後、第一、二章では教科書と「赤い鳥」という二つの場を想定し、きつねが活躍する他の物語群との相関で「ごんぎつね」をとらえる。第三章では「ごんぎつね」のテキスト分析を試みる。まず情報伝達という観点から反復・反省と遅れの操作を見る。次に「鶴の恩返し」や南吉の他の初期作との共通点を述べ、南吉の作劇術を考察する。
著者
猪野 郁子
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 人文・社会科学 (ISSN:02872501)
巻号頁・発行日
no.21, pp.p87-92, 1987-12

山梨県棡原村は日本一の長寿村であったといわれている。この村の食生活がどのように変ったか調査を行った研究班は,現在の彼らの食卓で家族の箸が交叉しないことに気づいている。つまり,食卓の上には幾皿も並んでいるが,老人は若い者向きの皿には箸がいかず,子どもは自分たち向きの皿にしか箸がいかないということである。 かって,粗食でもって長寿を永らえていた棡原村でさえ,食生活が近代化され,家族の嗜好が重んじられる個食化傾向がすすんでいるように,日本のいたる所で(どの家庭においても)こうした傾向は見られる。 このように,家族の好みあるいは年令にあわせた料理を食卓に並べる努力がなされている一方で,以前は,幼児や子どもにはふさわしくないとされていた食品が,案外無造作に与えられている光景に出会うことも多い。 例えぱ,おとなと同じ様に清涼飲料水の缶を1缶だかえていたり,コーヒーが1人前に溶れられたり,成人対象に作られた料理を飲食していたりである。 勿論,以前には,おとなと同じ物を飲食していなかったかと言えばそういうことはない。飲食していたが,塩分,香辛料,あるいは材質,形においての配慮はされていたのである。 つまり,幼児や子どもに与えてよい物と与えてはいけない物,あるいは,成長にあわせて与えていくべき物という配慮がなされていたといえる。 ところが,どうも最近,この配慮が少しずつなくなりつつあるように思われる。 それとともに,飲食をはじめる年齢も早くなってきているように思われる。 そこで,幼児の飲食の機会が増え,飲食をはじめるのも早くなっていると思われるコーヒー,コーラ,紅茶の嗜好飲料,アメ・キャンデー,チョコレート,ガムの菓子,カレーライスとインスタントラーメンの8食品をとりあげ,これらの飲食の実態を把握しようとした。又,今後の食教育のあり方を考える一資料を得たいと考えた。
著者
吉田 功
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 人文・社会科学 (ISSN:02872501)
巻号頁・発行日
no.3, pp.29-41, 1970-02

「詩は音楽的になり,音楽は詩的になった」とは,ロマン派芸術の特徴として,よくいわれている言葉である。リートは,これらの特徴を端的に表現し,又,これらの特徴を持ち得たロマン主義によって開花した。このリートを分析してみると,今述べてきたような特徴が如何に主な要素として構成されているか,又,これらの要素が詩人や作曲者にどのように把握されているかを知ることができる。又,そうすることによって,ロマン派芸術の一端を見ることができるといえるであろう。この小論は以上のことを中心に,シューマンの歌曲作品,《リーダークライス Op.39》を題材として,詩と音楽を見たものである。又,この小論は前半を,詩人と作曲者の結びつきからみた当作品,後半をこの作品中最も良く知られた《月夜》についての分析という順序で述べることにする。
著者
松元 雅和
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 (ISSN:18808581)
巻号頁・発行日
no.45, pp.83-93, 2011-12-28

平等論は、現代英米圏の分析的政治哲学においてもっとも発展しているトピックのひとつである。しかしながら、これらの理論的展開が、実践的にどのような含意をもつかは必ずしも明確ではない。むしろ、理論の精緻化が進むにつれて、その成果が喫緊の政策課題から離れてしまうことも往々にしてありうる。そこで本稿では、分配財としての教育を事例として、分析的平等論の理論的展開から得られる実践的意義を示してみたい。すなわち、本稿の目的は、平等論そのものを分析・評価することではなく、政治哲学としての平等論の一部を今日の公共政策へと接続する経路を示すことである。本稿の構成は以下の通りである。はじめに、今日盛んに議論されている教育の自由化の問題を取り上げ(第2節)、次いでこの問題に対して応用する、分析的平等論における平等主義と優先主義の区別を紹介する(第3節)。さらには、A・スウィフトの議論を参照に、「位置財」という観念を導入しつつ、教育を横並び化するレベル下げが正当化されうることを指摘し(第4節)、同時にその制約についても指摘する(第5節)。最後に、実証的知見を踏まえながら、以上の議論が近年の教育改革論議(特に学校選択制の是非)に対して与える示唆について論じてみたい(第6節)。