- 著者
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若松 美智子
- 出版者
- 東京農業大学
- 雑誌
- 東京農業大学農学集報 (ISSN:03759202)
- 巻号頁・発行日
- vol.53, no.2, pp.107-119, 2008-09-16
作家石牟礼道子の名前は水俣病と結び付けられ,彼女の作品は告発文学として一般に受け入れられることが多い。しかし石牟礼文学の真骨頂はその高い叙情性,詩情性にあることを,『椿の海の記』の分析を通して示す。幼児期に幼女の目でとらえた人の世の悲しみの諸相の中心に,祖母である盲目の狂女の存在があり,彼女と幼女であった道子との魂の交感が石牟礼の美学の中心にあることを,この自伝的作品は示している。幼時のかなしみの原体験を美へと昇華せねばならない必要性が石牟礼の創作欲の源になっている。本論文では『椿の海の記』の音楽的構成,自然風景描写,演劇的想像力といった手法と,この作品のいくつかの主題,神話的世界観,差別されるものの世界,祖母おもかさま,生命のみなもとへの希求といったモチーフを例示しながら,石牟礼文学の美の世界の内実をしめす。それは他者のかなしみを自分の悲しみとして受け入れる彼女の共感能力に由来する,悲しみの美学である。不知火海沿岸に生きる無辜の民の苦しみかなしみや,狂女の不条理の世界を描く石牟礼は,背中あわせに人間社会の権力の支配構造の不条理をも照らし出す。社会から差別されるものが生きるもう一つの世界,それは海と空と大地に連なる根源的な魂の世界に通じる。その魂の世界に生きる弱者の逆転の生を,彼女はかなしみの中に咲く花として描くのである。