- 著者
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深津 容伸
- 出版者
- 山梨英和大学
- 雑誌
- 山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
- 巻号頁・発行日
- vol.7, pp.A25-A30, 2008
聖書が語る神が「全能者」であることは、日本人にもよく知られている。というよりも、そのことが定着している現代においては、「神」という言葉を口にし、「神」という存在を想い浮かべるだけで、無意識に、(有神論者はもちろん、無神論者にとっても)目に見えない全能の神として把握されているのではないだろうか。これはキリスト教の宣教の結果によるものであり、それまでの日本人にとっては、「神」は神々の総称であり、神も仏も同列であって、人間を超えた存在ではあっても、全能というほど力あるものでも、絶対的なものでもなかった。古代イスラエルでは、拝一神教(神々の中で、一つの神のみを自分の神とする)であったので、存在自体も、力においても、超越性は高いものであったが、それは相対的なものであって、絶対的なものではなかったと考えられる。つまり、神にも不可能が存在していることは、人々も知っていたのである。むしろ、彼らにとって、神は人間に常に目を注ぎ、関わり続け、人の喜び、悲しみを自らのものとして受けとめ、ともに歩む存在なのである。本稿は、今や常識中の常識である「全能者」という概念がどのように生じたかを明らかにし、聖書の神がいかなるものであるかを問い直すものである。