著者
田中 圭治郎
出版者
佛教大学
雑誌
教育学部論集 (ISSN:09163875)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.43-56, 2007-03-01

京都は千年の都であり,政治の中心が江戸に移っても文化の中心として栄華を極めていた。江戸時代の中葉には,経済の中心が大坂へ,また後期には江戸へと移動した後も,町衆の文化への思い入れはたいそう強いものがあった。京都に明治2年に設置された番組小学校は,文部省の明治5年の「学制」頒布より3年先だって作られたものであり,教育の教育が全国的に見てもかなり先駆的かつ内容的に充実していた。しかしながら,番組小学校の経済的負担は京都府に全面的に依存しており,町衆の経済力が設置に貢献したものとは必ずしも言い難かった。その典型的なものが,小学校の維持費を捻出するために各小学校に作られた「小学校会社(明治2年設立)」である。この会社は当初こそうまく機能していたが,明治17年から18年にかけて,各番組において経済的破綻をしてしまい,その役割を京都府に委ねる。初等教育は,文部省の国家統制の手段であったため,何とか維持出来たが,中等教育は宗教団体へ身売りを余儀なくされる。我々が従来考えていた京都市民の活力,教育への願望,文化への希求といった固定した考え方がひっくり返るのである。京都市の公立学校は,国内の他の地域と同様,国の管理・統制・援助の下ではじめてその維持が可能であったことがわかるのである。

言及状況

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