著者
山中 雅子
出版者
鈴鹿大学
雑誌
鈴鹿国際大学紀要Campana (ISSN:13428802)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.47-60, 2004-03-20

南町奉行矢部駿河守定謙は北町奉行遠山左衛門尉景元とならび天保改革に携わった江戸町奉行であったが、間もなく町奉行を罷免され、桑名藩預けという重い処罰を受けることになった。その直接的な原因は、天保七(一八三六)年江戸市中御救米取扱掛買付不正事件の筋違い調査、町奉行就任後の調査放棄、刃傷事件の事実隠蔽、吟味中の供述態度・行動を問われたものである。しかし、彼を失脚に向けた事件は、天保改革推進者水野忠邦との市中政策をめぐる対立、天保一一(一八四〇)年に発令された三方領知替を再審に持込み水野との確執を深めたこと、あるいは、幕閣で大塩平八郎の理解者であったはずの矢部だが、その大塩の告発対象者であったことなどが失脚の一因ともされている。罪人として、江戸桑名藩邸から伊勢国桑名へ移送された矢部定謙は、桑名城吉之丸御用屋敷内御囲座敷で御預人としての一生を終える。桑名博物館に所蔵されている「桑名藩矢部駿河守預り関係史料」と題される史料は、矢部の桑名到着直前と死去後の二回にわたり作成されたものを書き写して纏めた可能性が強い史料である。この史料からは、矢部定謙が憤死をしたと伝えられる事柄からほど遠い記録が残されている。史料内容は、矢部が佐屋(現愛知県海部郡佐屋町)から桑名へ船で移送され御囲座敷へ入ったであろう経路、矢部死去後に作成された生前の御囲座敷における制限や日常生活、また、矢部の持病が悪化して死去にいたる経過、矢部死去後の公儀検使に対するマニュアルが記録されている。また、矢部定謙の死去が一般に流布されているような憤死によるものかどうか、史料から読みとることはできない。しかし、この史料から窺われるのは、御囲座敷の生活が逃亡・自刃防止のための警備のなか罪人として制限され監視を受ける日常であり、持病との闘いであったこと、また、御懸医師の口書が彼の最期を知る手がかりとなろうことである。御預人矢部定謙の最期の、そのほんの部分を「桑名藩矢部駿河守預り関係史料」によって紹介したいと思う。

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