著者
山中 雅子
出版者
鈴鹿大学
雑誌
鈴鹿国際大学紀要Campana (ISSN:13428802)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.121-137, 2005-03-20

文致6(1823)年8月上旬に蜂起した「桑名藩文政一揆」は、藩主の国替により以前より開講していた助成講の講掛金返還をめぐる事件である。この事件を複数の史料から構築したのが当考察である。各史料が異なった立場から記されていることに着目し、一揆の背景から終息、事後処理をまとめたものである。桑名藩は助成講という講を開いていたが、文政6年幕府から武蔵国忍へと国替を命じられた。講に加入していた農民らは在方の講加入を勧めた役人らに講掛金の返還を要求したが、埓があかず訴願のため城下の役所へ詰めかけた。城下へ詰めかける農民が増長したため、藩では農民らと交渉の用意をしながら一揆の蜂起に備えた。8月6日から7日にかけて打壊しが始まり、一揆へと化した。農民らは武装し近隣村々の庄屋宅を襲撃した。このとき一揆鎮静に導いたのは、本願寺御坊輪番の寺僧・笠松役所及び桑名藩郡奉行らの説諭であった。町屋川原で農民の訴願を聞届ける旨を約束したため一揆は解体するが、一方領主側に召捕らえられた農民に因果を含めて開放し一揆を鎮めるという手段も模索された。一揆終焉後、国替は無事完了し入封してきた松平越中守家と、かつての領分の一部を忍領として残し国替となった松平下総守家との立会によって一揆に関わる吟味が行われた。そして、3名が死罪となる。また、笠松役所によって「聞届」を約束された要求の多くは叶えられなかった。領主側は「聞届」と「聞済」の語意の違いをもって農民らの要求は叶えたと主張する。が、農民らは異議を唱えることなく一件は落着した。以上の動きを複数の史料から紹介したものである。
著者
山中 雅子
出版者
鈴鹿大学
雑誌
鈴鹿国際大学紀要Campana (ISSN:13428802)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.47-60, 2004-03-20

南町奉行矢部駿河守定謙は北町奉行遠山左衛門尉景元とならび天保改革に携わった江戸町奉行であったが、間もなく町奉行を罷免され、桑名藩預けという重い処罰を受けることになった。その直接的な原因は、天保七(一八三六)年江戸市中御救米取扱掛買付不正事件の筋違い調査、町奉行就任後の調査放棄、刃傷事件の事実隠蔽、吟味中の供述態度・行動を問われたものである。しかし、彼を失脚に向けた事件は、天保改革推進者水野忠邦との市中政策をめぐる対立、天保一一(一八四〇)年に発令された三方領知替を再審に持込み水野との確執を深めたこと、あるいは、幕閣で大塩平八郎の理解者であったはずの矢部だが、その大塩の告発対象者であったことなどが失脚の一因ともされている。罪人として、江戸桑名藩邸から伊勢国桑名へ移送された矢部定謙は、桑名城吉之丸御用屋敷内御囲座敷で御預人としての一生を終える。桑名博物館に所蔵されている「桑名藩矢部駿河守預り関係史料」と題される史料は、矢部の桑名到着直前と死去後の二回にわたり作成されたものを書き写して纏めた可能性が強い史料である。この史料からは、矢部定謙が憤死をしたと伝えられる事柄からほど遠い記録が残されている。史料内容は、矢部が佐屋(現愛知県海部郡佐屋町)から桑名へ船で移送され御囲座敷へ入ったであろう経路、矢部死去後に作成された生前の御囲座敷における制限や日常生活、また、矢部の持病が悪化して死去にいたる経過、矢部死去後の公儀検使に対するマニュアルが記録されている。また、矢部定謙の死去が一般に流布されているような憤死によるものかどうか、史料から読みとることはできない。しかし、この史料から窺われるのは、御囲座敷の生活が逃亡・自刃防止のための警備のなか罪人として制限され監視を受ける日常であり、持病との闘いであったこと、また、御懸医師の口書が彼の最期を知る手がかりとなろうことである。御預人矢部定謙の最期の、そのほんの部分を「桑名藩矢部駿河守預り関係史料」によって紹介したいと思う。