- 著者
-
村田(澤柳) 奈々子
- 出版者
- 日本中東学会
- 雑誌
- 日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
- 巻号頁・発行日
- no.26, pp.151-184, 2011-01-05
20世紀初頭、排外的民族主義が興隆する中で、国民国家形成途上のバルカン諸国は対立を深めていた。1906年に勃発したブルガリア、東ルメリア、およびルーマニアでの、ギリシア系コミュニティに対する暴力事件・迫害行為の結果、大量のギリシア系住民が、難民としてギリシア王国に流入した。ギリシアは、これら難民にいかに対処するかという問題に、国家としてはじめて直面することになったのである。本論は、難民定住と土地分配に関する立法措置へと至る、1906年〜07年のギリシア議会の取り組みと、法案・法律の具体的内容を詳細に跡づけるとともに、ギリシア・ナショナリズムの政治言説において、国境外のギリシア系住民がどのように位置づけられ、いかにしてギリシア国民として受け入れられたかを検討する。ギリシア系難民の発生は、オスマン帝国領マケドニアの領土獲得めざすギリシアとブルガリアの武力衝突、マケドニアのヴラヒ人の民族帰属をめぐる、ギリシアとルーマニアの対立を背景としていた。ギリシア議会は、これら難民を、ギリシア愛国主義精神の体現者と見なし、国力増強の一助とすべく、市民権・国籍を付与する特別措置を講じた。さらに、政府との協調により、定住のための土地と資金の提供を可能とする法的枠組みづくりを急いだ。難民の定住地とされたテッサリア地方では、オスマン時代からの大土地所有(チフトリキ)制が維持されていた。難民の定住政策は、この大土地所有制下にあった地元の分益小作人を、小規模自作農に転換させる政策と連動することで、農業近代化の契機ともなった。1907年4月制定の法3202号は、困難な財政事情の下、新たなコミュニティ建設のための国家支援を保障する内容を含む点で評価できる。本論で考察する、難民問題解決にむけたギリシア議会での活発な議論と、早急かつ実効ある立法措置に向けての真摯な取り組みは、腐敗と無秩序に支配されたとされる20世紀初頭のギリシア政治にあって、特筆すべきものである。さらに、難民が領土拡張主義政策の「殉教者」と位置づけられ、彼らの国内定住に向けての現実的な施策が採られたことは、バルカン諸国のナショナリズムと対峙したギリシア国家が、自国領としての併合を目指していた地域の完全な獲得を、もはや困難なものと考えていたことを暗示する。オスマン帝国を特徴づけた、多民族共生の社会は終焉を迎えようとしていた。1906年に起こった、国境外のギリシア系コミュニティからの難民流入と、国内におけるコミュニティ再編は、その前奏に過ぎない。二度のバルカン戦争、第一次大戦、そして1922年の対トルコ戦争での敗北によって、ギリシアは、さらに大量のギリシア系難民を受け入れることになる。本論で論じた立法措置は、これら難民の受け入れに際し、ギリシア政府の基本方針として引き継がれてゆくことになる。