- 著者
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小西 瑞恵
- 出版者
- 大阪樟蔭女子大学
- 雑誌
- 大阪樟蔭女子大学研究紀要 (ISSN:21860459)
- 巻号頁・発行日
- vol.3, pp.3-14, 2013-01-31
鎌倉時代の堺荘の荘園領主はだれかを明らかにするのが、本稿の第一の課題である。前稿で摂津国堺荘の史料であることを明らかにした元亨3年(1323)7月の「堺御庄上下村目録帳」(海竜王寺文書)が、元亨3年5月11日の「西園寺実兼御教書」をうけて作成されたもので、このとき摂津国堺荘は、春日社祈祷料所として興福寺東北院覚円(実兼子息)が領家になったことを、初めて明らかにした。この2点が摂津国堺荘の史料で、豊田武以来の通説とは異なる。当時の和泉国堺荘(堺南荘)は、最勝光院領で領家は永福門院藤原鏱子(伏見天皇中宮、実兼女)で、西園寺実氏が亡父公経のために建立した天王寺遍照光院の寺役も勤めていた。第二に、南北朝時代の摂津国堺荘で現地代官の地位にあった渡辺薩摩入道宗徹を検討し、宗徹が摂津国住吉郡守護であった楠木正儀の守護代であったことから、楠木正成に遡って南北朝動乱期の摂津渡辺党(渡辺惣官家)の動向のなかで論じた。