- 著者
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吉田 純子
- 出版者
- 神戸女学院大学
- 雑誌
- 論集 (ISSN:03891658)
- 巻号頁・発行日
- vol.60, no.2, pp.147-157, 2013-12
宮崎駿のアニメ・フィルムは、『千と千尋の神隠し』(2002)で金熊賞(2002)やアカデミー賞(2003)を受賞して以来、グローバルに観客の心を捉えてきた。批評家大塚英二は、『もののけ姫』(1997)をジョセフ・キャンベルの標準化された英雄の旅(原質神話)の枠内で論じて、この作品がウォルト・ディズニー・カンパニーとの提携によって、メディア・グローバリゼーションの波に乗ったと主張する。それは宮崎が「スターウォーズ / キャンベル」タイプの英雄の神話的冒険の基本パターン(離別・イニシエーション・帰還)に従って物語構造を変えてしまったからであると言う。しかし、『もののけ姫』には、物語構造にいくつかの変型があり、母性的要素が充満していることはその一つである。文化人類学者メアリー・ダグラスは、身体を社会の象徴と見ながら、「社会構造に内在すると信じられている能力や危険が凝縮して人間の肉体に再現されている」と述べている。本稿は、宮崎の『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『崖の上のポニョ』(2008)での豊かな身体的表象に注目し、多様な身体とそれらを養い、再生させる母胎のような容れものが、いかに社会的関係を象徴的に表しているかを検証する。注目すべきは、宮崎作品が様々な既存テクストーフランスの文芸おとぎ話「美女と野獣」、アーシュラ・K・ル=グィンの「ゲド戦記」、クリスチャン・アンデルセンの「人魚姫」「雪の女王」、そして日本の民話「安珍と清姫」などーと間テクスト性をもつことである。また、宮崎の作品は、日本の観衆にノスタルジーを喚起する馴染み深い日本的な場所に設定されている。ディズニー配給による宮崎作品のグローバル的流通は、商品売り上げの増大だけが目的なのだろうか。本稿は、ポストコロニアル視点からこの疑問を取り上げ、宮崎による彼自身の「文化の場所」の創出について検証する。