- 著者
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柴田 広志
- 出版者
- 同志社大学
- 雑誌
- 社会科学 (ISSN:04196759)
- 巻号頁・発行日
- vol.104, pp.93-114, 2014-11
セレウコス朝の第6代国王アンティオコス3世(位:前223〜187年)は,その治世初期に多くの内憂と外患への対処を迫られた。そのひとつが,小アジアで反旗を翻した王族小アカイオス(以下アカイオス)の反乱である。この有力王族は,アンティオコス3世の兄セレウコス3世の暗殺時の混乱収拾後に王に推戴されたが辞退,後に反乱を起こした際には麾下の軍の反対によって頓挫した。同時代に類例をほとんど見ないこの事例から,以下の事実が指摘できる。まず,王族による王国統治の分担という,セレウコス朝の支配体制が抱えていた問題である。このため,傍系の王族であっても,王家直系の男子の経験や年齢が不足とみられた時,他の王族が推戴される,あるいは反乱を起こす可能性があったのである。推戴直後にアカイオスが王位を辞退したのは決して忠誠心のあらわれではなく,王家直系のアンティオコス3世に取って代わる意志を当初から有し続けたものと思われる。後の王位宣言は,その現れである。これに対して,王位を継いだアンティオコス3世の軍事能力,とりわけ北方の蛮族に対する軍事的功績は,アカイオスが獲得し得なかったものであり,若い王の権威確立を可能にするものだった。アカイオスとアンティオコス3世の決定的な差は,セレウコス朝王家内における直系・傍系の差のみならず,バルバロイすなわち蛮族とされた集団に対する戦果の有無にあったことを推測し得るのである。